第87話 境界の王国
霧を抜けた先に広がっていたのは、静かな平原だった。
嘆きの渓谷の重苦しさとは対照的に、空は高く、風は乾いている。
遠くに見える城壁。
白い石で築かれたそれは、帝都の威圧的な防壁とは違い、どこか“均整”を感じさせる造りだった。
「……あれが」
メイラが目を細める。
「ヴァレン王国……」
セリスは、無言でそれを見つめていた。
胸の奥に、わずかな違和感がある。
(……軽い)
帝国にいた時とは違う。
空気が、どこか“澄んでいる”。
「気づいた?」
隣でライラが呟く。
「魔導濃度が違う。ここは帝国みたいに“搾ってない”」
「……搾ってない」
その言葉が、静かに胸に刺さる。
ガイウスが前を見据えたまま言う。
「だからこそ、均衡が保たれている。少なくとも——表向きはな」
「裏は違うってこと?」
メイラが聞く。
「どこも同じだ。知っている者ほど、口を閉ざす」
短い言葉だった。
だが、その重みは十分だった。
城門へと近づくにつれ、人の気配が増えていく。
商人。
旅人。
兵士。
だが——
誰もが一様に、どこか“観察している”。
「……視線、多いわね」
ライラが小さく言う。
「歓迎はされてないみたい」
「当然だ」
ガイウスが答える。
「ここは中立を保つ国だ。余計な火種は持ち込みたくない」
セリスは、自分の腰の剣に触れた。
(火種……)
ノイエは、何も言わなかった。
門の前。
王国兵が槍を交差させる。
「止まれ。身分と目的を」
ガイウスが一歩前に出た。
「旅の傭兵だ。王都へ補給に来た」
兵士は無言で一行を見渡す。
その視線が、セリスで一瞬だけ止まった。
——嫌な沈黙。
だが。
「……通れ」
槍が上がる。
「問題は起こすな」
門が開く。
一行は、ヴァレン王国へと足を踏み入れた。
——その瞬間。
セリスの視界が、わずかに歪んだ。
(……え?)
ほんの一瞬。
世界の輪郭が“二重”に見えた。
(今の……)
『……観測されています』
ノイエの声。
低く、静かに。
(誰に?)
『……近い』
背筋に、冷たいものが走る。
セリスは思わず振り返った。
だが、そこにはただの街並みが広がっているだけだった。
「どうした?」
ガイウスが問う。
「……なんでもない」
そう答えながらも、違和感は消えない。
(見られてる……)
確実に。
どこかから。
——場面は変わる。
帝国側。
霧の残る渓谷の外縁。
アルベルト・クロイツェルは、静かに立っていた。
「……逃走経路は確定しました」
部下が報告する。
「ヴァレン王国方面へ」
「想定通りだ」
アルベルトは短く答えた。
その手には、切断された外套の一部。
セリスの一撃で裂けたものだ。
「対象の能力は?」
「報告通り。“干渉型切断”。防御不能の可能性が高いかと」
「可能性ではない。確定だ」
アルベルトはそれを見下ろす。
「問題は——出力ではなく、“侵食率”だ」
わずかに目を細める。
「既に臨界に近い」
部下が一瞬、言葉を詰まらせる。
「……では、即時殲滅を?」
「違う」
即答だった。
「まだ早い」
顔を上げる。
視線の先には、王国の方向。
「利用価値がある」
「利用……ですか?」
「“封印”に干渉できる唯一の鍵だ」
淡々と告げる。
「破壊するのは、その後でいい」
部下は理解した。
——これは、“狩り”ではない。
“観測”だ。
「王国側への通達は?」
「既に完了しています。“例の件”として」
アルベルトはわずかに頷く。
「……ならば問題ない」
踵を返す。
「準備を進めろ」
「何を……」
「介入だ」
振り返らずに言う。
「王国がどう動くか——それ次第で、計画を修正する」
霧の中へと消えていく背中。
その声だけが、静かに残った。
「世界は、常に最適化されるべきだ」
——再び、王国。
石畳の街路。
人々のざわめき。
だが、セリスの耳には、それがどこか遠くに感じられた。
(……ここに来れば)
(何かが分かると思ったのに)
胸の奥が、ざわつく。
その時。
「ようこそ、旅の方々」
不意に、声がかかった。
振り向くと、一人の男が立っていた。
整った身なり。
柔らかな笑み。
だが、その目は——笑っていない。
「ヴァレン王国へ」
セリスの鼓動が、わずかに速くなる。
「少し、お話を伺っても?」
ガイウスが一歩前に出る。
「……誰だ」
男は軽く頭を下げた。
「王立観測局の者です」
その一言で——
空気が変わった。
ライラが、小さく舌打ちする。
「……当たりね」
男は続ける。
「あなた方が“持ち込んだもの”について、我々は非常に強い関心を持っています」
視線が、セリスに向く。
逃げ場はない。
「安心してください」
穏やかな声。
だが、その裏にあるものは明白だった。
「ここは帝国ではありません」
一拍。
「——ですが、無関係でもありません」
沈黙。
セリスは、ゆっくりと息を吸った。
(……来た)
逃げることはできない。
なら——
「……分かりました」
前に出る。
「話、聞きます」
ガイウスが一瞬こちらを見る。
だが、止めない。
それが答えだった。
男は満足そうに微笑んだ。
「ありがとうございます」
その笑みの奥で——
何かが、確実に動いていた。
王国。
中立の地。
だがそこは——
決して、安全な場所ではなかった。
セリスは知らない。
この選択が——
さらなる“深淵”への扉を開くことになることを。
赤い光が、微かに脈打った。
今度は——
消えなかった。
いつも応援ありがとうございます。
セリスの選ぶ「非合理な正しさ」と、それによって少しずつ変わり始める魔剣の関係性。書いていて私自身も、意志の力が世界にどう抗えるのかを考えさせられます。
実は、この『魔剣』とは正反対の「超合理的・現実的」な視点で歴史を再構築する物語も並行して執筆しています。
『室町ホールディングス再興録 〜過労死コンサル、足利義昭に転生す〜』
https://ncode.syosetu.com/n6067lz/
こちらは『魔剣』とは打って変わって、現代のビジネス知識で戦国の世を「ホワイト化」しようと奮闘するコメディ寄りの戦記です。
「意志」で戦うセリスと、「知略とシステム」で戦う義昭。
アプローチは真逆ですが、「理不尽な運命をどう塗り替えるか」という根底のテーマは共通しています。
もしよろしければ、息抜きがてら覗いていただけると嬉しいです。あちらの信長も、なかなかに「非合理」な男ですよ。




