第86話 追撃の楔
夜明け前。
雨は弱まっていたが、霧はむしろ濃くなっていた。
嘆きの渓谷は、白い闇に沈んでいる。
「……来てるわね」
ライラが低く呟いた。
その声に、全員が足を止める。
「数は?」
ガイウスが短く問う。
「三……いや、四。間隔を空けて展開してる。追跡専門の動き」
「包囲前提か」
ガイウスは舌打ちした。
「思ったより早いな」
セリスの背筋に、冷たいものが走る。
(もう……?)
「帝国も馬鹿じゃないってことよ」
ライラが肩をすくめる。
「“それ”を持ってる時点で、最優先案件でしょ」
視線が、セリスの腰へ落ちる。
ノイエ・ジール。
「……どうする」
メイラが不安げに言う。
ガイウスは即答した。
「迎撃する」
「えっ——」
「この霧だ。逃げ切るより、ここで一部を削った方が後が楽になる」
冷静な判断だった。
「ライラ、地形は?」
「左に崖。右は密林。正面は開けるけど——」
「十分だ」
ガイウスは剣を抜いた。
「ここで“狩る”」
その言葉に、空気が引き締まる。
——直後。
霧の向こうから、足音が響いた。
規則正しく、無駄のない歩調。
現れたのは——黒い外套の兵士たち。
その中心に、一人。
他より一歩前に出た男がいた。
長身。
銀に近い灰色の髪。
そして——感情のない目。
「……やはり、ここにいたか」
静かな声。
だが、確実に届く。
「元・帝国伯爵ガイウス。そして——」
その視線が、セリスを射抜く。
「対象個体、セリス・アルヴェリア」
空気が、張り詰めた。
「帝国中央監察局所属、特務執行官アルベルト・クロイツェルだ」
名乗りと同時に、背後の兵が一斉に構えを取る。
「その剣の回収、および対象の確保を命じられている」
「断る」
ガイウスが一歩前に出た。
「交渉の余地は?」
アルベルトは、わずかに首を傾げた。
「ない」
即答だった。
「対象は危険度S。生死は問わない」
メイラが息を呑む。
「……ひどい」
「当然の判断だ」
アルベルトの声に揺らぎはない。
「それは“兵器”だ。人ではない」
——その一言で。
セリスの中で、何かが軋んだ。
(……兵器)
(私は……?)
「やめときな」
ライラが一歩出る。
「その“兵器”、あんたらじゃ扱えないわよ」
「問題ない。破壊すればいいだけだ」
その瞬間——
アルベルトの姿が、消えた。
「——速い!」
ガイウスが叫ぶ。
次の瞬間、金属音。
火花が散る。
セリスの目前で、ガイウスの剣がアルベルトの刃を受け止めていた。
「……反応は上々だな」
アルベルトが呟く。
「だが——遅い」
衝撃。
ガイウスの体が吹き飛ばされる。
「ガイウスさん!」
メイラが叫ぶ。
同時に、帝国兵が一斉に動いた。
「散開!」
ライラの声。
森の中で、戦闘が始まる。
剣戟。
魔導の閃光。
霧の中で、視界は最悪。
「セリス!」
ガイウスの声。
「来るぞ!」
振り向いた瞬間——
目の前に、アルベルトがいた。
「——確保する」
刃が振り下ろされる。
(……っ!)
反射的に、セリスは剣を抜いた。
ノイエ・ジール。
黒い刃が、空気を裂く。
——触れた。
その瞬間。
アルベルトの刃が——“消えた”。
「……ほう」
初めて、彼の表情がわずかに動く。
「やはり、“切断”か」
セリスの腕が震える。
(また……)
あの感覚。
肉ではない。
存在そのものを“断つ”感触。
『……使いますか?』
ノイエの声。
甘く、冷たい。
(……違う)
(私は——)
だが。
アルベルトは止まらない。
次の一撃。
速い。
防げない。
「——っ!」
その瞬間。
セリスの視界が、赤く染まった。
時間が——遅くなる。
音が消える。
ただ、“線”だけが見える。
(ここを——断てばいい)
振るう。
——一閃。
世界が、戻る。
アルベルトの外套が、遅れて裂けた。
そして——
背後の岩壁が、音もなく崩れ落ちる。
「……なるほど」
アルベルトは一歩下がった。
初めて、明確な警戒がその目に宿る。
「既に、ここまで侵食が進んでいるか」
セリスは息を荒げる。
(今の……私……?)
『……美しいです』
ノイエが囁く。
『ですが——』
一瞬、声が沈む。
『長くは持ちません』
ガイウスが戻ってきた。
「セリス! 深追いするな!」
ライラも合流する。
「こっちも数減らしたけど、まだ来るわ!」
状況は最悪だった。
「撤退だ!」
ガイウスが即断する。
「目的は達した。ここで消耗する必要はない!」
「逃がすと思うか?」
アルベルトが踏み出す。
その瞬間——
メイラが前に出た。
「行って!」
魔導陣が展開される。
強烈な光。
爆発。
視界が白に染まる。
「今よ!」
ライラがセリスの腕を引いた。
「走る!」
一行は霧の中へ飛び込む。
背後で、アルベルトの声が響いた。
「……追うな」
兵が止まる。
「だが——」
彼は、静かに呟いた。
「面白い」
裂けた外套を見下ろす。
「計画を前倒しする必要があるな」
視線を上げる。
霧の向こう。
「ヴァレン王国か……」
わずかに、口元が歪んだ。
「ちょうどいい。あちらにも、“協力者”がいる」
——その頃。
セリスたちは、渓谷を抜けつつあった。
息が上がる。
足が重い。
だが——止まれない。
「……はぁ……はぁ……」
セリスは、自分の手を見る。
わずかに、赤い光が残っている。
(……さっきの)
(あれは、私じゃない)
『……いいえ』
ノイエが答える。
『あれも、あなたです』
心臓が強く打つ。
「……違う」
小さく、呟く。
「私は……」
言葉が続かない。
ガイウスが横に並んだ。
「怖いか」
セリスは、少しだけ考えてから答えた。
「……うん」
正直な言葉だった。
ガイウスは、短く息を吐く。
「それでいい」
「え?」
「怖さを忘れたら終わりだ」
前を向く。
「お前は、まだ人間だ」
その言葉に——
セリスは、わずかに救われた気がした。
霧の向こうに、かすかな光が見える。
「……あれが」
メイラが指さす。
「渓谷の出口……」
その先。
遠くに見える平原。
そして——
「ヴァレン王国……」
新たな地。
新たな戦い。
だが、その背後では——
確実に、何かが動き始めていた。
赤い光が、再び一瞬だけ脈打つ。
まるで——
目覚めを告げるように。
いつも応援ありがとうございます。
セリスの選ぶ「非合理な正しさ」と、それによって少しずつ変わり始める魔剣の関係性。書いていて私自身も、意志の力が世界にどう抗えるのかを考えさせられます。
実は、この『魔剣』とは正反対の「超合理的・現実的」な視点で歴史を再構築する物語も並行して執筆しています。
『室町ホールディングス再興録 〜過労死コンサル、足利義昭に転生す〜』
https://ncode.syosetu.com/n6067lz/
こちらは『魔剣』とは打って変わって、現代のビジネス知識で戦国の世を「ホワイト化」しようと奮闘するコメディ寄りの戦記です。
「意志」で戦うセリスと、「知略とシステム」で戦う義昭。
アプローチは真逆ですが、「理不尽な運命をどう塗り替えるか」という根底のテーマは共通しています。
もしよろしければ、息抜きがてら覗いていただけると嬉しいです。あちらの信長も、なかなかに「非合理」な男ですよ。




