第85話 決意の再出発
夜は深まっていた。
嘆きの渓谷に降る雨は、塔の石壁を静かに叩き続けている。
誰も、すぐには口を開けなかった。
焚き火の残り火が、かすかに赤く明滅するだけの沈黙。
——その沈黙を破ったのは、メイラだった。
「……そんなの、間違ってます」
震える声だった。
だが、その言葉には確かな怒りがあった。
「ルシファーを封印して……その力を搾り取って……それで成り立ってる文明なんて……そんなの……!」
言葉が続かない。
メイラは拳を握りしめ、俯いた。
ライラが、静かに息を吐く。
「でも、それが“現実”よ」
冷たい言葉だった。
だが、その瞳はわずかに揺れている。
「正義かどうかなんて関係ない。帝国はそれで栄えてる。人々はそれで生きてる。……止めたらどうなるか、分かるでしょ?」
「……っ」
メイラは言い返せなかった。
ガウス教授が、乾いた笑みを浮かべる。
「そういうことだ。お嬢さん。これは善悪の話ではない。“構造”の話だ」
壁に描かれた数式を、震える指でなぞる。
「封印は均衡だ。神と悪魔、その拮抗の上にこの世界は成り立っている。どちらかが崩れれば——世界そのものが歪む」
セリスは、じっとその言葉を聞いていた。
(……均衡)
(じゃあ私は……その均衡を壊す存在……?)
無意識に、右手が震える。
それを——
ガイウスの手が、そっと押さえた。
「考えすぎるな」
低い声。
だが、不思議と重みがある。
「世界がどうなろうと関係ない……とは言わん。だがな」
一拍置く。
「それでも選ぶのは、お前だ」
セリスは顔を上げた。
ガイウスは続ける。
「神に従うか、悪魔に呑まれるか——そんな二択をそのまま受け入れる必要はない」
「……第三の道があるって言うの?」
ライラが問い返す。
ガイウスはわずかに笑った。
「無ければ、作るだけだ」
その言葉に——
ガウス教授が、ぴくりと反応した。
「……理論上は、不可能ではない」
「教授?」
セリスが振り向く。
ガウスはゆっくりと立ち上がり、奥の棚から一枚の古い図面を取り出した。
そこには、複雑な魔導回路と——
八つに分割された“何か”を繋ぐ構造が描かれていた。
「ルシファーの魂は八つに分断されている。それぞれが“機能”を持つ断片だ」
「……機能?」
「破壊、再生、観測、干渉……そして“切断”」
ガウスの視線が、ノイエ・ジールに落ちる。
「君の剣は、その一つ。“切断”の核だ」
セリスは息を呑んだ。
「もし——」
ガウスは続ける。
「他の断片に干渉できれば、封印の“形”そのものを書き換えることができる可能性がある」
「……つまり?」
メイラが恐る恐る聞く。
「ルシファーを完全に解放するでもなく、神の支配を維持するでもない——第三の均衡を作る」
塔の中の空気が変わった。
「そんなこと……本当にできるの?」
セリスの声は、かすかに震えていた。
ガウスは静かに答えた。
「分からん。だが——」
真っ直ぐに、セリスを見る。
「それが唯一、“君が人間のままでいられる可能性”だ」
——沈黙。
雨音だけが響く。
やがて。
セリスは、ゆっくりと剣に手を置いた。
(……ノイエ)
『……はい』
(私は——)
一瞬、言葉が詰まる。
だが。
「私は、選ぶ」
顔を上げる。
その瞳には、迷いが残っていた。
それでも——
確かな意思があった。
「神にも、悪魔にもならない」
誰に言うでもなく。
それでも、全員に届く声で。
「私は、私のままで戦う」
ノイエ・ジールが、かすかに赤く光る。
『……了解しました』
その声は、どこか静かだった。
まるで——
少しだけ、嬉しそうに。
ガイウスが、小さく息を吐く。
「……決まりだな」
ライラは肩をすくめた。
「面倒な道を選んだわね」
だが、その口元には微かな笑み。
メイラは、強く頷いた。
「……一緒に行きます」
ガウスは椅子に座り直し、疲れたように言った。
「ならば、次に向かうべき場所は一つだ」
「どこですか」
セリスが問う。
「ヴァレン王国」
その名が、重く落ちる。
「かつて“観測”の断片が封じられた地。今は王国の王立機関が管理している」
「王国が……?」
「帝国ほどではないが、あちらも事情を知っている可能性が高い」
ガイウスが腕を組む。
「簡単には入れんな」
「当然だ。加えて——」
ガウスは窓の外を見る。
暗闇の向こう。
「君たちは既に、帝国にとって“最優先排除対象”だろう」
まるで、それを証明するように——
遠くで、雷が落ちた。
轟音が渓谷に反響する。
「……来るわね」
ライラが呟く。
「ええ。確実に」
ガイウスが立ち上がる。
「長居は無用だ。夜明け前に出る」
セリスも立ち上がった。
胸の奥には、まだ恐怖が残っている。
だが、それ以上に——
進むしかないという確信があった。
(復讐だけじゃない)
(これは——世界の話だ)
雨は、止まない。
だが。
夜は、必ず明ける。
「行こう」
セリスの言葉に、全員が頷いた。
嘆きの渓谷を後にし——
彼らは、新たな戦場へと向かう。
ヴァレン王国。
その先に待つのは、
真実か、裏切りか。
それとも——
さらなる“深淵”か。
赤い光が、一瞬だけ闇を裂いた。




