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【毎日更新!】魔剣に選ばれた王女 〜亡国から始まる反逆の戦記〜  作者: 筑紫隼人
第三章「崩れていくもの」

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第78話 舞踏会

 夕方。


「今夜——舞踏会があるわ」


 レナが言った。


「……舞踏会ですか」


「皇帝陛下主催の。帝都の貴族が集まる」


「……私も、行くんですか」


「行く」


「……でも、私は」


「セラ・エーレンベルクとして、よ」


 レナがセリスを見る。


「ヴェスターフェルト家の係累として——問題ない」


「……はい」


「ドレスは用意してあるから」


「……レナさんが?」


「私が」


「……ありがとうございます」


「また礼を言う」


「言いたいから言います」


「知ってる」


 レナが、微笑んだ。


——


ドレスを着る。


深い金色の生地が、光を柔らかく反射する。


鏡を見る。


「……似合っているわよ」


 レナが言う。


「……本当ですか」


「本当」


「……慣れていなくて」


「慣れなくていい。そのままでいい」


 レナが手を伸ばす。


「少し、整えてあげる」


「……いいんですか」


「したいから、する」


 指先が、髪に触れる。


 丁寧に。


 ゆっくりと。


「……レナさんは、こういうことが得意なんですね」


「……昔、妹によくやっていたから」


 静かな声だった。


「……妹さんが、いらしたんですか」


「……いた」


「……今は?」


 わずかな間。


「……いない」


 それ以上は、聞けなかった。


「……名代」


「ヴェストファーレン公爵家の名代よ」


 レナが、セリスの髪を整えながら言う。


「公爵閣下は喪中で出席できない。あなたが係累として出る——それだけよ」


「……エルマ様が亡くなられてから、まだ日が浅いのに」


「そうね」


 レナの手が、一瞬だけ止まる。


「……今夜の舞踏会は、ただの舞踏会じゃないわ」


「どういうこと?」


 レナが——少し、声を低くする。


「前皇后陛下が崩御されてから——今年で十年になるの」


「……十年」


「その節目に——新たな皇后を、正式にお披露目する場よ」


「新たな皇后?」


「アスタルテ・フォン・グランツハイム」


 レナが言う。


「すでに陛下の妃として宮廷に入られて久しいけれど——正式な皇后としてのお披露目は、今夜が初めて」


「……それとエルマ様の死は」


「関係ない、と言いたいところだけど」


 レナが、鏡を見る。


「エルマ様は——皇妹殿下だった。アスタルテ様のお披露目に、声を上げられる立場だった」


「……」


「だから——」


「レナさん」


「……言いすぎたわ。忘れて」


 レナが、微笑む。


「行きましょう」


——


帝国宮廷の大広間は——絢爛だった。


だが。


今夜の空気は——いつもより、重い。


シャンデリアの光は変わらない。


音楽も変わらない。


笑い声も、グラスの音も。


なのに——


「……なんか、違う」


「そうね」


 レナが言う。


「今夜は——特別な夜だから」


——


入場した瞬間。


広間の視線が——集まった。


レナへの視線。


そして——自分への視線。


「気にしなくていいわ」


 レナが、小声で言う。


「慣れれば平気よ」


「慣れたくない」


「また正直なことを」


——


最初の一人は——すぐに来た。


四十代の男性貴族。


金の勲章を胸に並べている。


「これはこれは、レナ殿」


「シュタールベルク侯爵」


 レナが、完璧な笑顔で一礼する。


「お久しぶりでございます」


「久しいな。今夜は一段と美しい」


「過分なお言葉を」


「いや、本当のことだ。今夜のパートナーはどちらかな?」


 侯爵が、セリスを見る。


「ヴェストファーレン公爵家の名代として参りました、セラ・エーレンベルクと申します」


「ほう。公爵家の係累か」


 侯爵が、値踏みするような目で見る。


「お美しい。一曲いかがかな?」


「ありがとうございます。ただ——名代としての務めがございますので」


「後ほどご挨拶に伺います」


 レナが、さらりと遮る。


 侯爵が——苦笑いして、引き下がる。


「……助かった」


 セリスが小声で言う。


「慣れれば自分でできるわ」


「慣れたくないわよ」


「また——」


「正直なのよ、私は」


 レナが笑う。


——


次から次へ、来る。


三十代の将軍。


五十代の大貴族。


若い伯爵。


「レナ殿、今夜は一段と——」


「本日はヴェストファーレン家の名代として——」


「お美しい。ぜひ一曲——」


「後ほどご挨拶に——」


「こちらのお嬢様は——」


「ヴェストファーレン公の係累で——」


「一曲だけでも——」


「申し訳ございませんが——」


 レナが、全員を完璧な笑顔で捌いていく。


 傷つけない。


 不快にさせない。


 それでいて——絶対に首を縦に振らない。


「……すごいわね」


 セリスが、小声で言う。


「五年の成果よ」


「楽しくなさそうな顔で言うのね」


「楽しくないもの」


 レナが笑顔のまま言う。


「でも——必要なことだから」


——


一方。


セリスにも——次々と来る。


「エーレンベルク嬢、一曲いかがかな」


「申し訳ございません。名代としての務めがございますので」


「ほんの少しだけ——」


「申し訳ございません」


「後で——」


「申し訳ございません」


 三回断ったあたりで。


 レナが、そっとセリスの腕を取った。


「こちらへ」


 二人で、人混みを抜ける。


 広間の端。


 少し、静かな場所。


「……疲れた?」


「少し」


「慣れれば——」


「慣れたくないって言ったわ」


「そうだったわ」


 二人で笑う。


「ありがとう、助けてくれて」


「お互い様よ」


——


広間の端。


二人の貴族婦人が、グラスを傾けながら話している。


扇で口を隠しながら——声が、聞こえてきた。


「……それにしても」


「ええ、本当に」


「皇妹殿下が亡くなられてから、まだひと月も経っていないでしょう」


「それなのに——新皇后のお披露目とは」


「陛下も——お変わりになられたわね」


「シーッ、声が大きいわ」


「でも——本当のことじゃない」


「まあ」


 一人が、扇を広げる。


「ヴェストファーレン公爵家は——どうなるのかしら」


「そうよ。奥方様が皇妹殿下でいらしたから、公爵家の立場も——」


「後ろ盾を失ったも同然ではなくて?」


「エルマ様は——アスタルテ様のお披露目に、ずっと反対されていたそうよ」


「……まあ」


「だから——」


 一人が、声をさらに低くする。


「あの死は——」


「シーッ!」


「……でも」


「でも、じゃないわ。聞こえたら——どうするの」


「でも——あのタイミングは、あまりにも」


 沈黙。


「……ゾンネンフェルト家は前から公爵家の序列第一を狙っているって話だし」


「今がチャンスと思っているんじゃないかしら」


「アイゼンハルト公は——どちらにつくのかしらね」


「様子見でしょう。あの家はいつもそう」


「賢いわね」


「賢いというか——臆病というか」


「どちらも同じことよ、この宮廷では」


「……ねえ、あそこにいるのレナ様とヴェストファーレン公爵の名代の方かしら?」


「あら、本当だわ」


「今夜は名代の方といらしているのね」


「名代の方もお気の毒に。喪中なのに出なければならないなんて」


「そういえば皇太子殿下は——ずっとレナ様を気にかけていらっしゃるのでしょう?」


「でも身分が——」


「だからよ。だから余計に、あれこれ言われてしまうの」


 扇の音が、二つ重なる。


(……聞こえていた)


 セリスは、前を向いたまま。


(エルマ様のことも。公爵家のことも。レナさんのことも)


(全部——噂になっている)


 レナは——聞こえていたはずだ。


 だが。


 その顔は——変わらない。


 完璧な笑顔のまま。


「……聞こえてた?」


 セリスが、小声で言う。


「聞こえていたわ」


「……辛くない?」


「慣れてしまったのよ。本当に」


「エルマ様のことも?」


 レナが——少し、止まる。


「……それは」


「ごめん。聞きすぎた」


「いいの」


 レナが、窓の外を見る。


「エルマ様は——本当に、素敵な方だった」


「……ええ」


「公爵閣下が変わっていく中でも——ずっと、変わらなかった」


「……」


「だから——」


 レナが言う。


「余計に、許せない」


 その声が——初めて。


 笑顔の下から、漏れた。


——


その時。


広間の空気が——変わった。


音楽が、止まる。


一瞬の、沈黙。


全員が——玉座の方を向く。


 宰相が、前に出た。


 銀縁の眼鏡。


 五十代。


 整った礼装。


 オルフェウス・フォン・ラングバウム。


 その立ち姿は——隙がない。


「皆様」


 よく通る声。


「本夜は帝国皇帝陛下主催の御前舞踏会に、ご参集いただきまして誠にありがとうございます」


 広間が、静まり返る。


「本夜は——特別なご報告がございます」


 オルフェウスが、一歩引く。


 玉座へ——視線が集まる。


「前皇后陛下が崩御されてより、十年の歳月が流れました」


「陛下はこの節目に——新たな皇后陛下をご披露申し上げることを、ここに宣言なさいます」


 ざわめきが——広間を走る。


(……来た)


 セリスは、前を向いたまま感じる。


「グランツハイム皇后陛下——アスタルテ・フォン・グランツハイム」


 オルフェウスが、告げる。


 玉座の傍らに——


 女が、立った。


 三十代ほど。


 長い黒髪。


 深紅の唇。


 純白の礼装を——まとっている。


 皇后の冠が、黒髪の上に載っている。


 広間が——静まり返る。


 そして。


 割れんばかりの——拍手が起きた。


 全員が、頭を下げる。


 セリスも——頭を下げる。


 だが。


 うつむきながら——


(ノイエ)


(……感知しています)


(何を?)


(……言語化できません)


(でも——)


(……あなたが感じているものは、正しい)


 それだけだった。


 頭を上げる。


 アスタルテが——微笑んでいた。


 広間全体を見渡すように。


 美しい笑顔で。


 その目が——一瞬だけ。


挿絵(By みてみん)


 セリスの方を向いた気がした。


(——っ)


 深紅の瞳。


 右目だけが——金色に光る。


(……オッドアイ)


 鼓動が、跳ね上がる。


(……何者だ、あの女は)


「セラ?」


 レナが、小声で言う。


「顔色が悪いわ」


「……大丈夫」


「本当に?」


「……少し、驚いただけ」


(ノイエ)


(……近づかせてはいけない)


(どういうこと?)


(……それだけです)


 セリスは——もう一度、玉座を見る。


 アスタルテが、皇帝ケルドリックに何か囁いている。


 皇帝が、微笑む。


 その微笑みが——人形のように、整っていた。


 そして目は何処と無く虚ろだ。


(……皇帝を)


(あの女が——)


 言葉にならない。


 ノイエも——黙っている。


 その沈黙が。


 何より、雄弁だった。


——


オルフェウスが——広間の端に下がる。


その目が——満足そうに、細くなる。


(……完璧だ)


 誰にも聞こえない声で。


(全て、計画通りに進んでいる)


 眼鏡を、押し上げる。


(エルマが消えた。タイミングも、申し分ない)


(あとは——)


 視線が、広間を流れる。


 そして。


 一瞬だけ——


 セリスの方を向いた。


(……ヴァルキリーが、帝都にいる)


(面白い)


 オルフェウスが、グラスを取る。


(……使えるかもしれない)


 一口、飲む。


 その唇が——かすかに、歪んだ。


——


「レナさん」


「なに?」


「あの宰相は——どんな人?」


「オルフェウス閣下?」


 レナが、視線を向ける。


「帝国一の頭脳と言われているわ」


「どんな人柄?」


「……」


 レナが、少し黙る。


「有能な方よ」


「それだけ?」


「……信用していない」


 低い声で。


「理由は?」


「……うまく言えないけれど」


 レナが、前を向く。


「あの方が動く時——必ず、誰かが得をして、誰かが損をする」


「政治家なら——当然じゃないの?」


「そうね」


「でも——」


 レナが、グラスを取る。


「損をする人が——いつも、同じ種類の人なの」


「どういう意味?」


「声を上げられない人。逆らえない人」


 静かに言う。


「そういう人が——いつも、割を食う」


 セリスは——オルフェウスを見た。


 広間の端で。


 グラスを片手に。


 全てを見渡している。


(……あの男も)


(何かを——企んでいる)


「……レナさん」


「なに?」


「今夜は——いろんなものが見えるわね」


「帝都とはそういう場所よ」


 レナが言う。


「表は美しい。でも——裏を見ると」


「重い」


「そう」


 レナが、微笑む。


「だから——慣れたくないのよ。私も」


——


「——レナ」


 声がした。


 振り返る。


 黒髪の男が立っていた。


 穏やかな顔立ちに、隠しきれない強い意志。


 後ろには護衛が二人。


「……殿下」


 レナが頭を下げる。


「隣の方は?」


「……セラ・エーレンベルクと申します。ヴェスターフェルト家にお世話になっております」


 セリスが答える。


「エーレンベルク家の……リヒターから聞いている」


 ヴァルターが微笑む。


「よく来てくれた」


「……ありがとうございます」


「レナが——よく話していたよ」


「殿下」


 レナが小声で制する。


「余計なことを」


「余計じゃない」


 ヴァルターは軽く首を振る。


「楽しそうだと——思っていた」


 レナの耳が、わずかに赤くなった。


——


しばらくして。


「セラさん、少しよろしいですか」


「……はい」


 ヴァルターに導かれ、人の少ない場所へ。


「帝国の外のことを——聞かせてもらえますか」


「……外のことですか」


「帝都にいると、見えないものがある」


 静かな声だった。


「外から見た帝国が、どう見えるのか——知りたい」


(……本気だ)


 セリスは思う。


「……少し長くなりますが」


「構わない」


 二人は話し始めた。


——


その様子を、レナが遠くから見ていた。


 真剣に耳を傾けるヴァルター。


(……殿下)


 視線を外す。


 胸の奥に、わずかな痛み。


(……私には、釣り合わない)


 グラスを口に運ぶ。


 冷たさが、喉を落ちていった。


——


夜が更ける。


「……ありがとうございました」


 ヴァルターが頭を下げる。


「いいえ」


「また、話を聞かせてください」


「……はい」


 彼は人波の中へ消えていった。


 セリスは周囲を見渡す。


(……レナがいない)


——


廊下。


 レナは一人で立っていた。


 窓の外——帝都の夜景を見つめながら。


「……レナ」


 振り返る。


「……殿下」


「一人か」


「……少し、疲れて」


「そうか」


 ヴァルターが隣に立つ。


 二人で夜景を見る。


「今夜も——よく似合っていた」


「……ありがとうございます」


「いつも——そう思っている」


「……殿下」


「なんだ」


「……そういうことを、おっしゃらないでください」


「なぜ」


「……困りますから」


「……そうか」


 沈黙。


 夜景だけが広がる。


「レナ」


「……はい」


「帝国が変わったら——」


 レナがわずかに息を止める。


「……殿下」


「まだ、言わない」


 視線は前のまま。


「でも——覚えていてくれ」


「……」


「それでいい」


 レナはグラスを握る。


「……覚えています」


 かすかに、声が震えた。


「……ありがとう」


 それだけ言って、ヴァルターは去っていく。


——


レナは、一人残された。


 グラスの中の液体が揺れる。


(……帝国が変わったら)


(……分かっている)


(だから——怖い)


 窓の外。


 帝都の光が、静かに広がっていた。


——


その時。


広間の端から——


視線を、感じた。


 セリスが、振り返る。


 オルフェウスが——こちらを見ていた。


 目が、合う。


 オルフェウスが——微笑む。


 会釈する。


 セリスも——会釈を返す。


(……何を、考えている)


 ノイエが——黙っている。


 オルフェウスが、視線を外す。


 別の貴族と、話し始める。


「……さっきの方は?」


 セリスが、レナに小声で聞く。


「オルフェウス宰相よ」


「こちらを見ていた」


「そうね」


 レナが言う。


「あの方は——全員を、見ているわ」


「全員?」


「広間にいる全員を」


 静かに言う。


「誰が誰と話して、誰が誰を見ているか——全部、頭に入れているのよ」


「……」


「だから——気にしなくていい」


「そうね」


(……気にしなくていい、とは思えないけれど)


 セリスは、前を向く。


(あの男は——何かを、企んでいる)


(今夜の舞踏会も)


(アスタルテのお披露目も)


(全部——あの男が、動かしている気がする)


 言葉にならない。


 ノイエも——黙っている。


 その沈黙が。


 何より、雄弁だった。


——


音楽が変わる。


ワルツ。


「……踊るの?」


「せっかくだもの」


 レナが、セリスに手を差し伸べる。


「私と踊って」


「……私、あまり上手くないわ」


「教えてあげる」


「……殿下に断っておいて、私とは踊るの?」


「あなたとは——踊れるから」


「どういう意味よ」


「そのままの意味よ」


 レナが笑う。


「さあ——手を貸して」


 セリスが——レナの手を取る。


 音楽に合わせて。



挿絵(By みてみん)



 二人で、踊る。


 最初は——ぎこちない。


「……足を踏んだ」


「痛くないわ」


「ごめんなさい」


「いいから——こっちに重心を」


「こう?」


「そう。上手よ」


「嘘つき」


「本当よ」


 少しずつ——なめらかになる。


 シャンデリアの光の中で。


 蒼銀の髪が、揺れる。


 深青のドレスが、回る。


 踊りながら——


 セリスは、背中でアスタルテの視線を感じていた。


 じっと。


 品定めするような——その視線を。


(……何者だ)


(あの女は——)


 言葉にならない。


 ノイエも——黙っている。


「……楽しい?」


 レナが聞く。


「……ええ」


「本当に?」


「本当に」


 レナが——嬉しそうに笑う。


 その笑顔が。


 今夜一番——本物に見えた。


「……レナさん」


「なに?」


「今夜——誘ってくれてありがとう」


「どういたしまして」


「こういう夜が——まだあるって、知らなかった」


「どういう意味?」


「……綺麗なものを見て。誰かと踊って」


「うん」


「そういう夜が——まだ、ある」


 レナが——少し、黙る。


「……あるわよ」


 静かに言う。


「どんな時でも——こういう夜は、ある」


「……ええ」


「だから——」


 レナが、セリスを見る。


「生き延びなさい」


「……え?」


「何があっても——生き延びて」


「レナさん——」


「こういう夜を——また、迎えるために」


 音楽が——続いている。


 二人は、踊り続けた。


——


広間の端。


 ヴォルフが——静かに立っている。


 人間の姿で。


 二人が踊るのを——遠くから、見ている。


 そして。


 玉座の傍らに立つ——アスタルテを。


 見ていた。


(……来ていたか)


 鷲の目が、細くなる。


(……セリスが、あれを見ている)


(気づいているか)


(……まだ、分からないだろう)


(だが——本能は、正しい)


(今夜は——何も起きない)


(おそらく)


 グラスを、一口。


 視線が——オルフェウスに向く。


(……あの男も、動いている)


(全部——繋がっている)


 ヴォルフが、グラスを置く。


(……厄介なことになってきた)


 音楽が——広間に満ちていた。


——


舞踏会が終わって。


馬車で屋敷に戻る。


夜の帝都が、窓の外を流れる。


魔導灯の青白い光。


石畳。


静かな夜。


「……楽しかった?」


 レナが聞く。


「……ええ」


「本当に?」


「本当に」


 レナが、窓の外を見る。


「よかった」


「レナさんは?」


「私も」


「本当に?」


 レナが——笑う。


「本当に」


 しばらく。


 二人で、窓の外を見た。


「……レナさん」


「なに?」


「さっき——生き延びなさいって言ったでしょう」


「言ったわ」


「あれは——」


「あなたに言ったの」


「……私だけに?」


 レナが——少し、黙る。


「……自分にも」


 かすかな声で。


「自分にも——言い聞かせていたのかもしれない」


 馬車が、屋敷の前で止まる。


 扉が開く。


 レナが、先に降りる。


 そして——振り返る。


「今夜は——ありがとう」


「私が?」


「一緒に踊ってくれて」


「……こちらこそ」


 レナが笑う。


 夜風が、水色の髪を揺らす。


「おやすみ、セラ」


「……おやすみ、レナさん」


 扉が、閉まる。


 セリスは——しばらく、その扉を見た。


(……生き延びなさい)


(あなたも——)


 胸元に、写真がある。


 さっき撮った、写真が。


(……ちゃんと、持っているわ)


 夜が——静かに、更けていく。

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