第71話 帝都の華
バール教暦一一五二年、秋の終わり――。
帝都アドラーブルクの巨大な城壁が、ついにその姿を現した。
「……大きい」
隣でメイラが息を呑む。
「こんなに大きな街、見たことがないです」
「帝国の心臓部だからね」
セリスは外套のフードを深く被り直し、短く答えた。
地平線の彼方まで続く石造りの城壁。
昼間だというのに、魔導灯の光が爛々と輝いている。
遠くでは、魔導路面電車が鉄の音を響かせて走っていた。
かつて帝国に滅ぼされた祖国エルデンとは、あまりにかけ離れた文明の光景だった。
「気を抜かないで」
ライラが低い声で釘を刺す。
「ここは世界で一番、帝国の『目』が多い場所よ」
「……分かっているわ」
城門の手前で、三人は足を止めた。
「ここで、一度別れましょう」
「セラ・エーレンベルクとして貴族の屋敷を訪ねるのに、旅の仲間を連れているのは不自然だわ」
セリスの提案に、ライラも静かに頷いた。
二つの小さな魔導石が手渡される。
緊急連絡用の合図だ。
「……待っていて」
「必ず、合流するから」
セリスは二人の気配が遠ざかるのを確認する。
そして一人、巨大な城門へと足を踏み入れた。
*
市民区を抜け、北の貴族街へと向かう道中だった。
活気溢れる市場の喧騒が、耳を打つ。
その中を通り抜けようとした、その時――。
「おい、そこの姉ちゃん」
「ちょっと待ちな。……案内料、持ってるだろ?」
無遠慮な声が背後から飛んだ。
振り返るまでもない。
ガラの悪い男が二人、ニヤついた顔で距離を詰めている。
セリスは一歩身を引いた。
剣に、そっと手をかける。
――その瞬間だった。
「――その汚い手をどけなさい」
「耳が腐るような声を出して」
凛とした、氷のように鋭い声。
乾いた衝撃音が、二つ重なった。
一瞬だった。
男の一人の膝が砕ける。
もう一人の鳩尾に、鞘の先が深くめり込む。
二人は石畳に転がり、うめき声すら上げられない。
その中で――。
水色の髪が、風に揺れた。
女は悠然と剣を鞘に収めていた。
「……大丈夫?」
振り返りもせず、淡々とした声で問う。
「……はい。助かりました」
セリスは呆然としながら答える。
そこでようやく、女がこちらを向いた。
瞳は深く、濃い青。陶器のような白い肌に、淡い シアンの長髪が波打っている。
肢体は細身ながらもしなやかな曲線を描き、その腹部は鋭く引き締まっていた。
帝都に咲いた一輪の華。そう呼ぶにふさわしい、冷艶な美しさだった。
「帝都はああいう手合いが多いから、気をつけなさい」
それだけ言うと、女は歩き出そうとする。
「……あの!」
セリスは思わず声をかけた。
「お名前を、聞いてもいいですか」
「いつか、お礼をしたいので」
「お礼なんていらないわよ」
「気が向いただけだから」
「それでも……言いたいんです」
「私は、セラと言います」
女は少しだけ意外そうに目を丸くした。
やがて――。
ふっと、悪戯っぽく笑う。
「……レナ」
「覚えておいて、セラ」
水色の髪が、人波の中へと溶けていく。
セリスは、その後ろ姿を見ていた。
胸の鼓動が、なかなか収まらない。
――違う。
これは、恐怖じゃない。
憧れでもない。
なのに。
なぜか、目が離せなかった。
*
ヴェスターフェルト家の屋敷は、帝都の北区にあった。
門の前に立つ。
衛兵が「何者だ」と言う。
「セラ・エーレンベルクと申します。ヴェスターフェルト家にご縁があり、参りました」
衛兵が、少し考える。
「……少し待て」
中に消える。
しばらくして、戻ってくる。
「入れ」
*
屋敷の中は、広かった。
使用人に案内される。
廊下を歩く。
窓から見える庭が、丁寧に手入れされていた。
応接室に通される。
しばらく待つ。
扉が開く。
大柄な男が入ってきた。
黒髪。
鋭い目。
両手大剣の痕が、腰に残っている。
「リヒター・ヴェスターフェルトと申します。黄金獅子大隊隊長を務めております」
「セラ・エーレンベルクと申します。お世話になります」
リヒターが、セリスを見る。
値踏みするような目ではない。
確認する目だった。
「……公爵から話は聞いている」
「しばらく、ここを使ってくれ」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
リヒターが言う。
「あなたが帝都にいる理由は——聞かない」
「ただし」
「……はい」
「ここにいる間は、屋敷の規則に従ってもらう」
「目立つな。騒ぎを起こすな。それだけだ」
「承知しました」
リヒターが、立ち上がる。
「……セラ」
低く呼ぶ。
「一つだけ、先に済ませておこう」
「……?」
「殿下に、一度顔を見せておく」
短いが、有無を言わせない声音だった。
「ついてきてくれ」
*
屋敷の奥へと向かう。
人の気配が少なくなる。
重厚な扉の前で、リヒターが足を止めた。
わずかに、内側から声が漏れている。
「……中に人がいるな」
低く呟く。
扉に手はかけない。
「少し待とう」
「……はい」
セリスは小さく頷く。
(……ここで待つしかない)
(客人として、勝手に動くわけにはいかない)
静かな時間が流れる。
その沈黙の中に、かすかな気配があった。
――その時。
「隊長!」
廊下の向こうから、兵が駆けてくる。
リヒターが視線を向ける。
「至急、ご確認いただきたい件が——」
短く耳打ちされる。
リヒターの表情がわずかに引き締まった。
「……分かった」
そして、セリスに向き直る。
「すぐ戻る」
「ここで待っていてくれ」
「はい」
迷いのない返事。
リヒターはそのまま足早に去っていった。
足音が、廊下の奥へと遠ざかる。
*
セリスは、一人残された。
静寂。
重厚な扉の前。
(……待つ)
そう思った、その時だった。
わずかに開いた隙間から、声が漏れる。
*
「……レナさん」
(……!)
心臓が跳ねる。
あの声だった。
市場で出会った、あの女。
「……はい」
「少しだけ、時間をいただけますか」
「……構いませんが」
静かなやり取り。
セリスは息を潜める。
(……聞くつもりはない)
(でも……)
足が、動かなかった。
*
「結婚を——急かされていまして」
一瞬、呼吸が止まる。
「……そうですか」
「レナさんは、どう思いますか」
「……殿下のお立場を考えれば」
「では——レナさんが、なってくれますか」
(……え)
思考が追いつかない。
「……お戯れを」
「戯れではありません」
静かな声。
それでも、揺れはなかった。
「軍をやめて——私の妻になってほしい」
鼓動が、大きくなる。
理由は分からない。
それでも――胸の奥がざわついた。
「……お受けできません」
はっきりとした拒絶。
それでも、どこかやわらかい。
「……私は、孤児です。それにご存知の通り、他人には言えないようなこともしてきました。」
「知っています」
即答だった。
「その上で——言っています」
沈黙。
長い沈黙。
「……殿下は」
「はい」
「……ずるいです」
かすかな笑みが、混じる気配。
それ以上は、聞こえなかった。
*
しばらくして――足音が戻ってくる。
セリスは姿勢を正す。
何も聞いていない顔を作る。
リヒターが現れた。
一瞬だけ、扉へと視線を向ける。
中の気配を読む。
そして、静かに言った。
「……一人にさせてすまない」
「いえ」
「取り込み中のようだ」
「面会は、また今度にしよう」
「……はい」
セリスは頷く。
二人は、その場を後にした。
*
部屋に荷物を置き、廊下に出る。
窓から——帝都が見えた。
遠くに——皇城の尖塔が見える。
(……あの中に)
(帝国の中枢がある)
(エルデンを滅ぼした帝国が)
(今も、あそこで動いている)
それでも。
(……守るために)
(戦う)
宝石が、静かに光る。
*
角を曲がった瞬間。
「——っ」
誰かにぶつかりそうになった。
「——あら」
水色の髪。
濃い青の瞳。
「……市場の」
「……あの」
二人が同時に言う。
沈黙。
「こんなところで会うとは」
女が、少し目を細める。
「……ヴェスターフェルト家の方ですか」
「そう。ここに住んでいるから」
当然のように言う。
「あなたこそ——なぜここに?」
「……お世話になっていて」
「ふうん」
女が、セリスを見る。
上から下まで。
「……旅の人には見えないわね」
「そうですか?」
「うん。どこかのお嬢さんみたい」
「……そんなことはないです」
「謙遜ね」
女が歩き出す。
「朝食、まだ?」
「……まだです」
「じゃあ一緒に食べましょう。案内するわ」
「……いいんですか」
「いいに決まってるでしょ」
振り返らずに言う。
「早く来て。冷めるから」
セリスは、その背中についていく。
(……また、会った)
(不思議な人)
(どうしてこんなに——自然なんだろう)
*
食堂。
二人は向かい合って座る。
レナは手際よくパンをちぎった。
その半分を、セリスの皿に置く。
「これ、焼きたてで美味しいわよ」
「食べなさい」
「いつも私の分だけ余るの」
「……ありがとうございます」
セリスは少し戸惑いながら受け取る。
「でも、どうしてそんなに……」
「顔に書いてあるわよ」
「何か事情があるって」
レナはスープを口に運ぶ。
「……まあ、聞かないけど」
「話したくなったら言えばいいわ」
茶目っ気たっぷりに笑った。
「困ったことがあったら言いなさい」
「この屋敷のことも、帝都のことも」
「……レナさんは、おいくつなんですか?」
「秘密」
「乙女に年齢を聞くのはマナー違反よ」
一拍置いて――。
少しだけ胸を張る。
「でも」
「お姉ちゃんに任せなさい」
「……お姉ちゃん?」
真顔の宣言。
セリスは思わず吹き出した。
「……ふふっ、あはは!」
「……なによ」
「おかしくないでしょ」
レナは少しだけ耳を赤くする。
その様子が可笑しくて、セリスは笑みを浮かべた。
「いえ……ただ、嬉しかったので」
窓から朝の光が差し込む。
二人の食卓を、柔らかく照らしていた。
それは――。
戦いの中で、初めて触れる“日常”だった。
そして。
セリスは、まだ知らない。
この何気ない時間が。
どれほど大切なものになるのかを。
この出会いが――。
孤独な戦いの中にいたセリスの運命を、静かに変えようとしていた。
いつも応援ありがとうございます。
セリスの選ぶ「非合理な正しさ」と、それによって少しずつ変わり始める魔剣の関係性。書いていて私自身も、意志の力が世界にどう抗えるのかを考えさせられます。
実は、この『魔剣』とは正反対の「超合理的・現実的」な視点で歴史を再構築する物語も並行して執筆しています。
『室町ホールディングス再興録 〜過労死コンサル、足利義昭に転生す〜』
https://ncode.syosetu.com/n6067lz/
こちらは『魔剣』とは打って変わって、現代のビジネス知識で戦国の世を「ホワイト化」しようと奮闘するコメディ寄りの戦記です。
「意志」で戦うセリスと、「知略とシステム」で戦う義昭。
アプローチは真逆ですが、「理不尽な運命をどう塗り替えるか」という根底のテーマは共通しています。
もしよろしければ、息抜きがてら覗いていただけると嬉しいです。あちらの信長も、なかなかに「非合理」な男ですよ。




