第138話 山の中へ
夜明け前に——起きた。
岩場が——冷えていた。
息が——白かった。
空が——まだ、暗かった。
でも——東の端が、少しだけ明るくなり始めていた。
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ガイウスが——すでに起きていた。
地図を——見ていた。
「……今日から、入るか」
「ええ」
「道は——ない」
「岩場を登るしかない」
「わかっています」
「メイラは——体力的に問題があるかもしれない」
「大丈夫です」
メイラが——後ろから言った。
「起きていたの?」
「さっき目が覚めました」
「寒くて」
「そうか」
「でも——大丈夫です」
「登ります」
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ライラが——戻ってきた。
「夜の間——異常はなかった」
「施設の兵は?」
「動いていない」
「わかった」
「今日中に——施設の射程外まで、上に入る」
「そうしないと——発見されるリスクがある」
「どのくらい上れば、射程外ですか」
「……三時間ほどだ」
「わかりました」
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朝食を——簡単に済ませた。
パンと——水だけだった。
「……今日は、これだけですか」
メイラが——言う。
「山の中では——荷物を軽くした方がいい」
「そうですね」
「帰りも——考えなければならない」
「消費を——計算する」
「……ガイウスさんらしい」
「効率の問題だ」
「わかってます」
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出発した。
岩場を——登り始める。
足場が——不安定だった。
大きな岩の間を——縫うように進む。
手を——使うこともあった。
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「……思ったより、険しいですね」
メイラが——息を切らしながら言う。
「山だからな」
ガイウスが——淡々と答える。
「わかってましたけど——実際に登ると、違いますね」
「慣れろ」
「慣れるまでに——どのくらいかかりますか」
「今日中には、無理だ」
「……正直ですね」
「事実だ」
メイラが——また、足を進めた。
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一時間。
ずいぶんと——上に来た。
振り返ると——昨夜の岩場が、小さく見えた。
施設が——遠くに見えた。
「……あそこが、施設か」
「ええ」
「小さく見える」
「十分に上れています」
ライラが——言う。
「もう少し——上れば、完全に射程外だ」
「わかりました」
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また——登る。
足が——重くなってくる。
でも——空気が、変わってきた。
澄んでいた。
深く吸うと——冷たかった。
でも——気持ちよかった。
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「……空気が違いますね」
メイラが——言う。
「山の空気だ」
「なんか——頭が、すっきりする気がします」
「薄いからだ」
「え、それ——いいことじゃないですよね」
「慣れれば問題ない」
「慣れるのに時間がかかるって、さっき言いましたよね」
「その通りだ」
「……やっぱり正直ですね」
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二時間を——過ぎた頃。
ライラが——立ち止まった。
「……ここで、一度休む」
「射程外か」
「ああ。ここまで上れば——施設からは見えない」
「わかった」
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岩の陰に——腰を下ろした。
水を——飲む。
冷たかった。
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セリスは——山を見上げた。
まだ——上がある。
どこまでも——上がある。
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「……ノイエ」
小さく、呼ぶ。
『……はい』
「近づいてきた」
「感じますか」
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少し——間があった。
昨日より——短かった。
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『……感じます』
「昨日より——強くなっていますか」
『……はい』
「どんな感じですか」
『……』
また——間があった。
『……引っ張られる、ような』
「引っ張られる?」
『……はい』
『近い、と思っています』
「封印が?」
『……はい』
「怖いですか」
『……』
『……怖い、と思います』
「……そうですか」
「私も——何か、感じます」
「引っ張られる感じではないけれど」
「……重い感じがします」
『……はい』
「それが——何なのかは、わからない」
「でも——確かに、ある」
『……はい』
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「……行きましょう」
セリスが——立ち上がる。
「ええ」
「うん」
「……ああ」
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また——登り始めた。
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午後。
道が——なくなった。
岩だけに——なった。
四人で——岩を掴みながら、進む。
慎重に。
一歩ずつ。
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「……これは、きつい」
メイラが——言う。
「大丈夫か」
ガイウスが——振り返る。
「大丈夫です。でも——きつい」
「正直に言え。無理なら——止まる」
「無理じゃないです。きついだけです」
「……その区別が、大事だ」
「わかってます」
「きついのは——全員同じだ」
「そうなんですか?」
「ああ」
「ガイウスさんも?」
「……ああ」
メイラが——少し、嬉しそうな顔をした。
「なんか——安心しました」
「なぜだ」
「ガイウスさんだけ、平気そうだったから」
「……顔に出さないだけだ」
「それって——損じゃないですか」
「効率の問題だ」
「……どう効率なんですか」
「顔に出すと——仲間が心配する」
「心配させる方が——無駄だ」
メイラが——少し、止まった。
「……それって」
「心配させたくない、ってことですよね」
ガイウスが——何も言わなかった。
また——登り始めた。
メイラが——その背中を見た。
「……やっぱり優しい」
「違う」
「効率だ」
「……同じですよ」
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夕方が——近づいた頃。
平らな岩場が——見えてきた。
「……あそこで、今夜は休む」
ライラが——言う。
「わかった」
「明日——さらに上に行けば、封印核の近くに入れるはずだ」
「ガウスの記録と——合っていますか」
「大体、合っている」
「大体か」
「山は——記録通りにはいかない」
「でも——方向は合っている」
「わかりました」
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平らな岩場に——着いた。
風が——強かった。
でも——大きな岩が、壁になっていた。
「……ここなら、風を防げる」
「ええ」
荷物を——下ろした。
火を——起こした。
乾いた木が——少しあった。
辛うじて——火になった。
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小さな火を——囲んだ。
メイラが——干し肉を温めた。
「……温かいのが、ありがたい」
「山では——体温が下がりやすい」
ガイウスが——言う。
「温かいものを食べることが——重要だ」
「効率ですか」
「そうだ」
「……でも、気にかけてくれてますよね」
「効率だ」
「……わかりました。効率でいいです」
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食後。
メイラが——すぐに眠りについた。
疲れていたらしかった。
ガイウスが——見張りに出た。
ライラが——目を閉じた。
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セリスは——火の前に座っていた。
山が——静かだった。
風の音だけが——あった。
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「……ノイエ」
呼ぶ。
『……はい』
「今日——登りながら、引っ張られると言っていた」
『……はい』
「今も——感じますか」
『……はい』
「強くなっていますか」
『……はい』
「明日——さらに近づく」
『……はい』
「……大丈夫ですか」
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少し——間があった。
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『……大丈夫、という言葉の意味が』
『……今は、分かりません』
「どういうこと?」
『……大丈夫である状態が——どういう状態か』
『……封印に近づくにつれて』
『……基準が、変わってきている気がします』
「……変わってきている」
『……はい』
「それは——怖いことですか」
『……分かりません』
『ただ——変わっている、ということは、分かります』
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セリスは——火を見た。
炎が——揺れていた。
「……変わっていくことが——必ずしも悪いことではないと、思います」
『……はい』
「あなたも——最近、変わってきている」
「言葉が——少しずつ、変わってきている」
『……はい』
「それは——いいことだと、思っています」
『……そうでしょうか』
「ええ」
「あなたが——変わっていくことを」
「私は——怖いとは思わない」
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沈黙。
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『……ありがとうございます』
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初めてだった。
ノイエが——感謝を——こちらに向けて言うのは。
「どういたしまして」
セリスが——言った。
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火が——小さくなっていく。
山の風が——岩場を鳴らした。
星が——近かった。
山の上では——星が、近い。
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セリスは——星を少し見てから、横になった。
目を——閉じた。
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(……明日)
(さらに近づく)
(封印核に)
(ルシファーの封印に)
(ノイエが——引っ張られている場所に)
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(怖くても)
(行く)
(一人じゃないから)




