第八章 約束の日 (1)
「やっと思い出したよ、里奈」
僕は右手のスーパーボールを握りしめた。このボールはあのとき僕が失ってしまったものだ。それが時を超え、僕にあの約束を思い出させるために現れた。きっとあの死神の少女の仕業だろう。
今日は五月十一日。あの日から二十年後の約束の日。きっと里奈は覚えていたのだろう。死して尚、僕との約束を覚えていてくれた。なのに、僕は……。
何もない白い空間、そこに今の僕は立っている。どこを見回しても白が続いている。上下左右の感覚がない。だが、僕には出口が分かっている。そう、現実への出口だ。里奈との約束を守るため、僕は戻らなくてはならない。彼女が、前に進むための勇気をくれる。
僕は振り返る。そこに立つのは死神の少女。少女は僕を見て、口を開く。
「やっと思い出しましたね。決心はできましたか?」
「ああ。里奈が思い出させてくれたよ。色々なことを」
子供の頃に見た、未来への夢、希望。あのころのように世界は輝いては見えないけれど、それでも僕にはまだ未来が存在する。里奈はそれを教えてくれた。今度は僕の番だ。
「僕は約束を果たしに行く」
死神はゆっくりと頷いた。
「そうしてください。里奈さんは約束の地で、あなたを待っています。死んでしまった者には今も未来も存在しない。あるのはただ、過去に残してきたものだけ。生きているものには些細な問題でも、死んでいった者にはそれしか残されてはいない。里奈さんにとって、それはあなたとの思い出だった。歩き出してください。あなたにはどこに進めば良いか分かるはず。人は足を踏み出すことで、それが自分が進むべき道だと分かるのですから」
僕は少女の言葉を受け、しっかりと前を見据えて歩き出した。もう現実の世界が恐ろしくはなかった。除々に視界が晴れてくる。あの駅だ。僕が記憶の旅に向かったとき、最後に現実にいた場所だ。僕は戻ってきた。あの駅のホームに、僕は再び立った。
人々のざわめき、電車の止まる音、駅員の鳴らす笛、これは現実だ。戻ってきた。時刻は僕が過去に旅立ったときから変わっていない。僕の目の前の線路に電車が走りこんできて、止まる。空港へ向かう電車。僕は迷わずそれに乗り込んだ。僕は里奈に救われた。今度は僕が責任を果たす番だ。あの桜の木の元へ、行ってみよう。
高校から始まり、幼稚園まで遡っていった記憶の旅。僕はそこで様々な思いを手に入れた。今の僕は世界に絶望し、何事にも興味を向けようとしなかった。失うのが怖いから、裏切られるのが怖いから。
だけど、僕は逃げていただけだ。子供のころ、世界は輝いて見えた。今でもそれは見えない。それは、世界が変わったんじゃない、僕が変わったんだ。努力もせずに夢を諦め、ただ社会を遠ざけて希望を失い、思い出せば辛いからと、里奈との記憶に蓋をした。
それが、僕だった。その責任を社会に押しつけていた。夢には責任が付きまとう。旅の中で聞いた黒田先生の言葉がよみがえる。
あのころの心を僕は失ったんじゃない。まだどこかに埋もれている。人は過去を持つ。生まれた時からずっと。だけど、ときどき振り返れば、そこに忘れてきたもの、落としたもの、埋もれたものが発見できるはずだ。僕は色々なものを落としていた。今日、それが分かった。
今日という日、すべてが終わったらまた絵を描いてみようと思う。里奈と見た景色を、僕の手で。きっとまだ遅くは無い。




