第六章 紅葉の旅 (1)
記憶の旅から引き戻されて、僕は目を瞬いた。あの後の春、僕はちゃんと里奈や中津川とともに、志望校に合格した。
しかし、黒田先生の言葉が、今ずっしりと胸に圧し掛かった。僕はいつの日からか、夢や目標から逃げていた。責任はまだ果たせてはいない。
僕は先程の記憶の中と同じく、あの山の前にいた。ただし、雪は降っておらず、周りに見える木々は紅葉に染まっている。季節は秋だ。木枯らしが吹いて、落ちた枯れ葉を散らした。
僕はそれを見上げた。今見えるのは、緑の、黄色の、そして紅い葉だけだ。
しかし、僕は気付いていた。この場所に、里奈との記憶として思い出さねばならない何かがある。重要な何かが。もう少しで届きそうな記憶を必死で手繰り寄せようとするが、あと数センチの差で届かない。
僕は目を閉じた。彼女との記憶を思い出させる最後の鍵を求め、過去の自分に心を投じた。
その日、僕は朝早くから起きて、絵を描いていた。今日は土曜日、いつも僕を悩ませる小学校は休みだ。四年生の僕は、それだけで心がわくわくする。
今描いているのは甲虫の絵だった。クヌギの木の上でカブトムシとノコギリクワガタが喧嘩している絵だ。これは自分の持っている昆虫図鑑の中の写真から模写したものだが、下書きの段階である現在は、まあまあ上手くいっている。
問題は色塗りだった。僕が今使おうとしている道具は水彩絵の具。後から何度でも塗り直しができる油絵の具やアクリル絵の具と違い、水彩での色塗りは一発勝負となる。つまり、失敗すればそれまで。折角うまくいった下書きも、意味のないものとなってしまう。
僕はふぅ、と息を吐き出してから、右手に持った筆に水を含ませた。先にチューブからパレットに出しておいた青と白の絵の具を混ぜ合わせ、水色を作る。背景の空を塗るための色だ。
含ませた絵の具を、画用紙に力を入れずに押しつける。ゆっくりと横にずらしながら、平面の世界に色を付けていく。
「よし」
僕は空を水色に塗り終わったところで、腕を止めた。今日はこれからみんなとの約束がある。その間にこの絵を乾かそう。絵の具と絵の具が後で混ざらないようにするためだ。
筆とパレットを洗い、絵の具で濁った水を捨てた後、描きかけの絵を机の上に広げたまま、僕はスケッチブックと鉛筆、そして色鉛筆をリュックに入れて部屋を出た。そのまま玄関を向かったとき、母親は台所から顔を出した。
「あら正志、どこ行くの?」
「ちょっと里奈たちと遊んでくる」
「夕飯までには帰ってくるのよ」
「はーい」
一通りの会話を終え、僕は外に出た。秋の涼しげな風が僕を出迎える。少し曇っているが、天気は悪くない。僕は庭の自転車にまたがり、秋空の下を走りだした




