第五章 うたかたの冬 (5)
相変わらず、ここには人の気配を感じさせない。そして、人に忘れられた秘境ようなこの場所の雰囲気も、全く変わってはいない。
「懐かしい……」
「本当、久しぶりだ」
僕らはそれぞれ独り言のように呟いた。ここに最後に来たのはいつだろう。たしか、中学に上がるよりももっと前だ。なぜ今更になってここへ来ようと思ったのか、自分でも分からなかった。
僕と里奈は参道を辿って神社本殿に上がる木の低い階段まで来ると、雪を払ってその一段に腰かけた。ここは大隅たちには教えていない、僕と里奈の秘密の場所だった。なぜ誰にも教えないようにしていたのか、その理由は忘れてしまったが、まだ秘密は守られたままだ。
「正くん、覚えてる?あの桜の木」
「それはもちろん」
僕は境内の隅、神社の横にある大きな木を見た。これは桜の木、今は他の木と同じように白い雪の花を咲かているが、春になれば白に近い桜色の花を咲かせる。品種はヤマザクラというらしい。里奈はそれが好きで、春にはよくここに二人で桜を見に来たりしていた。人が少なく、静かなここは僕たちにとって、二人だけの絶好の花見スポットだった。
「昔正くんがさ、あの桜の絵を描いたんだよね」
里奈が桜の木の方を見ながら言った。だが、僕にはその覚えがない。
「そうだっけ?」
「覚えてないの?」
僕の方を見て、少し不機嫌そうに里奈が言った。しかし、思い出そうとしても頭に浮かんでこない。僕は苦笑いしながら頭をかいた。何か大事なことだったろうか。
「もういいわ」
そう言って里奈は僕から目を逸らした。少し怒らせてしまったか。そう思って何か言おうとしていた時、僕の方を見ないまま不意に里奈が口を開いた。
「私が桜を好きになった理由、話したことあったっけ」
里奈が髪にかかった細かな雪を、手袋をはめた指で払う。空中を舞った白い雪が陽の光に銀色に輝き、白い地面に消えた。
「う~ん、してないと思う」
僕は慎重に頭の中を探ってから、そう言った。また忘れていたとしたら、どうなるだろう。不安が胸をよぎる。だが、里奈は「そう」とだけ言って、うつむいた。
少しの間、沈黙が続いた。細雪だけが二人の間に積もる。里奈がふう、と息をついた。その息が白く染まる。
「小学校に上がる前、私たち毎年桜祭りに行ってたでしょう。そのとき、私のお父さんに教えてもらって、ここの神社を知ったよね」
僕は頷いた。それはなんとなく覚えていた。この町では毎年春、桜が咲くころに祭りが開催される。それを僕たちは桜祭りと呼んでいた。里奈が続ける。
「あの頃はただお祭りが楽しかっただけだった。桜も、綺麗な花だなってくらいしか思ってなかった。でも、正志が『僕は画家になる』って言って、その最初の作品私くれるって、あの桜の絵を私にくれたじゃない。それがすごく嬉しかった」
そう言って、里奈はうつむいたまま恥ずかしそうに笑った。
「それからかな、私が桜を好きになったのは」
ぽつりと、里奈が言った。僕も何か恥ずかしくなって、空を見た。小さな雪の結晶が一粒僕の顔に降りてきて、頬に当たって溶けた。




