第五章 うたかたの冬 (2)
毎日のように歩いていた学校の廊下も、今はいつもの生徒たちの騒がしさが無く、どこか物哀しい静けさがある。電気が点けられていないため、昼ではあるが薄暗い。
僕は廊下の突き当たりまで来ると、そこにある職員室の扉をノックして、中に入った。
「失礼します」
他の教室や廊下と違って、職員室には数名の先生や職員がいる。冬期休業中といっても、やはり仕事はあるのだろう。僕はざっと部屋の中を見回して、美術室の鍵を返す相手を探した。その先生はすぐに見つかった。
「黒田先生、これ美術室の鍵です」
「ああ、すまんな」
僕は小さな鍵を先生の大きな手に置いた。黒田先生は五十歳手前の男の先生で、美術部の顧問だった。白髪交じりの髪に、短く伸ばした髭。背は高いが、物腰は柔らかく、柔和な性格で、生徒にも人気があった。僕も顧問の先生として、また美術の授業の教師として三年間教えを受けてきた。
「穗村、少しいいかい?」
先生が鍵を机の引き出しにしまいながら言った。鍵を返してすぐに帰るつもりだったので、黒田先生に呼びと止められたのは少し意外だった。
「何ですか?」
そう言った僕に、先生は椅子を回して向き合った。一瞬何か悪いことをして怒られるのかと思ったが、先生の穏やかな顔を見る限りそうではないようだ。
「絵描きを目指す君に、最後にアドバイスをと思ってね」
低いが、どこか安心感を覚える穏やかな声で先生は言った。先生には今までも、たくさんの指導をしてきて貰っている。僕と同じように、黒田先生も昔は画家を目指していたらしい。しかし、家族の反対に会い、結局教師としての道を選んだと聞いている。
「なれるかどうかは、分かりませんけど」
「弱気はいかんよ、穗村。君にはまだ若さも希望もある。それに何よりも、君には才能がある。それは私が認めるよ」
「ありがとうございます」
僕は嬉しくなって頭を下げた。黒田先生が、励ますように僕の体をポンと叩いた。
「どんなことがあっても、その夢から逃げ出してはいけないぞ。私は画家になることを諦めなければならなかった。今はこうして教師をして、君たちのような才能ある若者たちを育てるのを楽しんでいるが、たまにふと、あのまま絵を描き続けていたらどうなったろうと思うことがあるよ。でも、君のように私が育てた誰かが画家になってくれれば、私の長年の夢は、ようやく叶う。きっと、そうなるだろう」
何も言えない僕に向かって、先生は微笑んだ。三年間教えを受けてきた中で、こんなことを言われたのは初めてだった。
「夢にはな、責任というものが付きまとう。それは叶えようとする自分自身に対してであり、夢を話し、共有したものたちに対してでもある。しかしな、責任には夢は付いてこない。諦めてしまえば、果たせなかった責任だけが心にぶら下がることになるんだ、私のようにね。でも、それは自分で決めることだ。強く信じ、かつ努力すればきっと夢は叶う。綺麗事かもしれないけど、そう信じられることが人生にとっては有益なんだ。穗村、頑張れよ!」
「……はい!」
そう励ましを言い渡して、黒田先生は僕を送り出した。先生の言葉が刻みこまれるのと同時に、急にその姿が遠くなっていしまったような気もした。
僕は絵を描くのが本当に好きだった。だから、この先生に自分の絵を評価してもらうのも、絵画の技術を教えてもらうのも本当に楽しかった。でもこれが、先生のアドバイスを聞く最後になるだろう。先生との責任を果たせるように生きよう、そう決心した。




