第五章 うたかたの冬 (1)
深い夢から目覚めるように、僕はゆっくりと目を開いた。僕は過去の自分自身そのものとなり、あの出来事を再体験していた。感覚も記憶もあの頃のままに。記憶の旅とは、こういうことなのだろうか。
僕は頭に手を当てた。本当に、しばらくの間忘れていた感覚を思い出した。皆と一緒に、何の疑問も持たずにその日を楽しめていた。里奈と二人で話せる日々があった。そして、あの頃には僕にもまだ、夢があった。確かにその感覚を忘れていた。
だが、まだ里奈を救うために十分なものは手に入れていない。何故かそれが感覚的に分かった。
僕は首を回して、自分の置かれた景色を見た。
僕がいるのは、もう海岸ではなかった。僕は雪の上に立っている。白い雪の冷たい空気が鼻から口へと通り抜ける。振り返ると、大きな白い建物が見えた。学校だ。ならばここは校庭だろう。
僕が息を吐くと、それは白い気体となって、空中に消えた。この情景にも見覚えがある。確か、僕の中学校。今度は中学時代が旅の舞台らしい。僕は迷わずに、再び目を閉じた。過去の自分と今の僕が、重なった。
僕は窓の外を見た。既に全面を白に染められた校庭の上に、雪の粒がまばらに降り注いでいる。その上を歩く者は誰もいない。
僕は窓から目を逸らし、教室の中を見た。ここは美術室。壁際の棚には誰の作品か分からない彫像やキャンバスが飾られている。電灯の点いていない室内は薄暗い。入学した当初から、見慣れた風景だった。冬休みであるため、僕以外にここにいるものはいない。僕もここに長居をする予定はなかった。今日はここに残していた僕の絵描き道具を整理しに来ただけだ。
僕は今中学三年、部活を引退し、受験に専念する時期だ。三年の間世話になったこの美術室では、もう絵を描くことはないだろう。そう思うと、一抹の寂しさを覚える。
「これでよし、と」
僕は自分のアクリル絵の具の中身がきちんとそろっていること確認して、ケースを閉じた。パチンという乾いた音が、誰も居ない教室に響く。
僕は他にスケッチブックと何も描かれていない布のキャンバスをひとつずつ持って、立ち上がる。冷たい板張りの床や、油絵の具やアクリル絵の具の匂いが混ざった独特の匂いに別れを告げ、美術室を出た。最後に一度だけ教室の中を振り返ってから、ドアを閉める。その鍵を閉めた時やっと、もうここに戻ることはないという実感が沸いていた。僕はしばらくドアの前に佇んでいたが、やがて踵を返し、その場所を後にした。




