放たれた二重の矢
夜の帳は、その部屋を深く闇に閉ざしている。
しんと澄んで冷たい静寂の中で聞き取れるのは、部屋の主のひそやかな寝息だけ――だが、そこへわずかにも音を立てず、忍びよる影があった。
影は星明かりの夜闇にまぎれる黒衣をまとい、さらに黒布の覆面をしている。かろうじてわかる体格から、その影が男だと見当がつく。
人影は気配を殺して、部屋の主が眠るベッドへ近づいた。
天蓋付きの立派なベッドに横たわるのは、まだ若い娘だ。色濃い疲労をうかがわせる暗い寝顔で、眉根を寄せ、何かをこらえるように奥歯を噛みしめている。
影は娘の表情など気にかけず、懐からダガーを抜いた。星明かりさえ届かない屋内であるのに、ぬめるような銀光を抜身の刃が帯びたかに見えた。
男は標的の娘を、寸時見据える。
上半身を乗りだし、得物をそっと娘の首筋にあてがおうと利き腕を伸ばした。ダガーに少し力をこめて引けば、娘の細い首ならたやすく動脈まで切り裂けるだろう。
手慣れた男に、失敗の懸念など微塵もない。標的は十五歳の少女だ。素人の小娘相手に、暗殺を生業としている男が後れをとるはずもない。難しいのは殺すことよりも、家人に悟られずに仕事を終えて逃走することだ。
柄を持つ男の手に力がこもった。
鋭い銀光の走る刃が、細い首を斬りつける。
――そう見えた瞬間、黒衣の男は吹き飛ばされた。巨大な鉄球でもくらったような一撃を腹に受けたのだ。何の備えもしてなかった男は、衝撃の勢いのまま壁に叩きつけられた。
「――――――っ、かは!」
壁から落ちてひざをついた男は、こらえきれずに倒れかかり両手を床につく。
にわかに、続きの間の扉が開いた。
「マリー様!」
壁に激突した音が家人を呼びよせたのだろう。
娘の愛称を叫んで部屋へ飛びこんできたのは、お付きの侍女だった。壁際でひざをつく男の影にすばやく目をやった侍女は、携えていた火かき棒を下段にかまえて疾走する。
「誰かっ、誰か来て! 曲者です!!」
怒鳴りながら、侍女は果敢に侵入者へ立ち向かう。火かき棒を斜め上に薙ぎはらい、男の頭を打ち据える。
とっさに男はダガーで受け流そうとしたが、先ほどの打撲のせいでうまく捌けず、火かき棒は利き腕を強打した。だが、ダガーで勢いを若干削げたおかげで、深刻な負傷ではない。
打撲の痛手から立ち直りつつあった男は、この若い侍女と標的の娘を始末してから逃走するべきか、束の間検討する。
侍女は考える暇を与えないように、再び打ちかかってくる。
浮かしかけた片ひざを狙った棒の軌道を見てとった男は、横へ転がってかわし、体勢を立てなおした。
そこから伸びあがるようにして、ダガーを突きつける。侍女は身体をひねって避けたが、剣先は腕をかすめた。
「――どうした! 何事だ?」
太く力強い声が開かれたままの扉から聞こえてくる。
大柄な人影が扉向こうに現れた瞬間、黒衣の男は後ろへ大きく飛びのいて踵を返した。
侵入口である鍵のかかっていない窓を体当たりするように開ける。二階だったが迷わず飛び降りて、敗走した。
大柄な男は窓に駆けよると、侵入者の逃走経路を確認し、屋外から駆けつけた部下に東南方向への追尾を命じた。
指示を終えると、すぐさま侍女の許へやってくる。
「セーラ。無事か」
「……はい、ヴィオーダ将軍。マリー様にお怪我はないようです」
「そうか。……ん? マリルルカ嬢は、いやに静かだな。本当に大丈夫なのか」
セーラと呼ばれた侍女が、燭台に炎をともす。
淡い明かりに照らされたベッドを、壮年のヴィオーダ将軍は無遠慮に覗きこんだ。
羽毛の上掛けにくるまれた伯爵家令嬢マリーことマリルルカは、ぼんやりとした眼差しを返す。
将軍は眉間にしわをよせた。
「意識はあるようだが、一服盛られたのかもしれん。医者を呼ぶよう、家令に伝え……」
「っ!? きゃああああああ!」
甲高い悲鳴が、耳にキーンと響く。将軍は反射で耳をふさぎ、口をつぐんだ。
セーラが、さっと将軍の前へ出る。
「気をお静めください、マリー様。ヴィオーダ将軍は賊を追い払ってくださったのです。もう危険はございません。大丈夫です」
親しい侍女になだめられ、悲鳴を何とか飲みこんだマリルルカは、しかし急に飛び起きた。そして、セーラの左手をにぎる。
「腕っ。服が切れてる。あなた、怪我してるんじゃない? ちっとも大丈夫じゃないわ!」
「平気です。出血はにじむ程度ですから」
「だめよ、すぐに手当てしましょう。……って、え、賊? 泥棒でも入ったの?」
ショールを羽織ってベッドからおりるマリルルカが、怪訝そうに訊ねる。
常に無表情なセーラの顔が、少し強ばった。
その様子に気づいた将軍は、眉をしかめ険しい目をする。
「どうやら、盗賊じゃないようだな。セーラ、夜更けにすまんが、詳しく話を聞かせてくれ。もちろん、手当てした後でいいからな」
マリルルカには何が起こったのかわからず、ただ言いようのない不安を覚えて、肌身離さず身につけているペンダントにふれる。
鎖に通した指輪が微かに熱を持っているようで、冷えた手はそれをぎゅっとにぎりこんだ。
* * *
カラヴェイン伯爵家令嬢の暗殺が失敗した翌日。
暗殺の仲介を請け負ったポードル男爵は、その報告のために依頼者の邸を訪ねた。男爵は荒れる依頼者をなだめ、次こそ完遂させると約束し、足早に邸を退散するところだった。
ところが、その足を止めざるを得なくなる。邸の前庭で、顔見知りの婦人に呼びかけられたからだ。
「まあ、ごきげんよう。ポードル男爵」
「……ぁ、ああ。これは、これは、奥方さま。こんにちわ。今日も麗しいお姿ですね」
屈強な従僕を連れた婦人は、華美ではないが上質の美しいドレスをまとい、品のよい小物を身につけている。さりげなく流行を取り入れるセンスの良さは折り紙付きで、多くの貴婦人方に相談を持ちかけられるほどだ。ポードル男爵の挨拶は、決して世辞ではない。
「ありがとう、男爵。今日は、ご商売でここへいらっしゃったのでしょう」
「ええ、はい。こちらの邸の夫人が、私の扱う宝飾品に興味を持っていただけたようで、いくつか披露してまいりました。これも奥方さまのご紹介のおかげです。商売繁盛させてもらってますよ」
異国の男爵であり、首飾りや指輪などの装飾品を商う商人――それがポードルの表の顔だ。
それを知っているはずの婦人は、だが、男爵の言を冷徹に切ってすてた。
「ここの夫人には、宝飾をあがなう余裕は髪一筋ないでしょう。わたくしが訊ねたのは、もうひとつのご商売についてです」
「はあ……、いやはや私は不器用なもので、他に商品を扱っておりませんが」
困ったように首をかしげる。純粋に相手の勘違いだろうと、やんわりと訂正したふうを装った。
内心では疑心と緊張が渦巻いていたが、それを顔に出すようでは暗殺の仲介業どころか商人としても立ちゆかない。
ところが、目の前の婦人は、商人が得意とする演技に惑うことなく話を続けた。
「隠すことはありませんわ。あなた方のお話は聞かせていただきましたもの。ここの夫人が、男爵に暗殺を依頼した、と」
「それはお聞き間違いでしょう。まさか、奥方さまのような貴婦人が立ち聞きもありますまい。きっと通りがかりに洩れ聞こえた会話を、早とちりなされたんでしょうな」
ポードル男爵はにこやかに返す。脳裏では、先ほどの依頼人とのやりとりを反芻していたが、人払いしたうえ、憤激していた夫人――依頼人も大声をあげるほど理性を失ってはいなかった。
そう、依頼者である夫人は厳重に人払いしたのだ。それなのに、邸の奥まった一室の前を通りかかれるはずがない。
その意味を考えかけた男爵に、対峙する婦人は初めて笑顔を見せた。
「ご存じかしら。この邸の夫人は、わたくしの身内ですのよ。親しく行き来していますから、夫人の嗜好もこの邸内のことも手に取るようにわかります」
秘密をのぞき見ることなど造作ない。
そう意図した台詞だと読み取り、ポードル男爵は次にとる行動を考えた。
逃走、は屈強な従僕に阻まれるだろう。
男爵は仲介者であって暗殺者ではない。腕っぷしは、贔屓目に見て人並みだ。
あくまで、しらばっくれるべきか。
だが、依頼人との会話を子細洩らさず聞いただろう相手が、簡単に納得はすまい。
「ごまかしは無用。まわりくどいのも結構」
一瞬の思考を、婦人が断ち切った。婦人のうっすらとした笑顔は冷めている。
「貴方を通じて〝赤月の矢〟に依頼します。けれど、暗殺じゃないわ。昨夜、失敗したというカラヴェイン伯爵家の娘が持っている証の花を、わたくしの許へ」
観念して盗みは請け負っていないと言いさした男爵を制し、婦人は成功報酬を告げる。提示された額にしばらく沈黙した男爵は、やがて顔に商人の笑みを浮かべた。
「おまかせくださいませ、〝赤月の矢〟に。城塞と名高い〝神の箱庭〟でありましても、かの矢は過たず標的を仕留めますゆえ。必ずや、証の花をお届けしましょう」
暗殺は一度失敗している。それでも、男爵は商人の厚顔でもって、暗殺組織〝赤月の矢〟の不遜な常套句を唱えた。
二度の失敗はない。組織の存続のためにも、これ以上の失敗は許されないのだ。
――――そして、同日の夕方。
カラヴェイン伯爵令嬢マリルルカは晩餐後のお茶の席で、ヴィオーダ将軍から提案される。
「カラヴェイン伯――お父上の葬儀が済み次第、復学してはどうかね? もちろん嬢ちゃんが成人を迎えて爵位を継げるようになる、三月先までのことだが」
続けて復学する必要性を説かれたマリルルカは、質問することもなく、ただ了承を告げた。
読んでくださり、ありがとうございます。
初っ端から硬めの文章で読み辛いかと思いますが、
次から多少は軽くなるはず(当社比)。
続きもご覧になっていただけると、うれしいです。




