Case5:はじまりの夏3
「思い出した。私の方が後から帰ったのに、たいちゃんがまだ帰ってないって言われたんだ」
当時の春木がどう思ったかは想像に難くない。自分の判断によるお互いの単独行動が、招いた結果にひどく心を痛めたのだろう。
「オマエのせいじゃねえからな。多分オレが先に帰ろうが後に帰ろうが関係なかったんだよ……ほら」
ざくざくと落葉を踏みしめて歩くうちに、二人は地蔵菩薩の像――記憶の中よりは随分風化して苔も生えている――の前に出た。
「このお地蔵さんの前を通るの二度目だろ。ループする条件はおそらくオレがいること。オレと一緒にいる限り、この山から帰ることはできねえんだろ」
「……そうなのかな」
「ま、山での迷子はとりあえず〝煙草する〟ってことでどうだ?」
江角はあえて地元の言葉を使い、持っていた紙煙草の箱を取り出す。昔は春木の祖母が休憩時間になるとよく使っていたが、彼女が亡くなってからはめっきり聞くこともなくなった。
「山火事になるって怒られない?」
「まあ、携帯灰皿もあるし、ちゃんと始末すれば大丈夫だろ。出火は大体、火の不始末から始まってるからな」
そう言って江角は持っていた安物のライターで煙草に火をつけた。昨今喫煙者が肩身の狭い思いをしているだろうが、UPIの職員は、全員が煙草の携帯を義務付けられている。煙草というのは古くから怪異への対策として存在するため、未知との遭遇の際に助けになる可能性があるためだ。
火をつけ、ぼんやりと煙草をくゆらせる。
「これはオレの推測なんだが、親父さんが煙草吸ってから帰ったのは文字通り〝煙に巻く〟ってことなんじゃねえかな。残念ながら当時のオレたちにはその手段がなかったわけだが」
「その手段があったとして、本当に煙に巻けたかどうかは別なんじゃない?」
ほら、と言って春木は遥か遠くを指さした。
「……そんなに甘くはねえってことか」
江角はガリガリと頭をかいた。
春木が指さした場所には、あの日江角が遭遇した単眼異形の女が立っていた。当時はその異常さに気づかなかったが、そもそもこの山の中で白い着物を汚さずにいられる時点でおかしいのだ。
「やれ嬉しや」
女が笑ったのがわかった。女は滑るように移動し、江角と春木の近くまでやってきた。成人男性としてそれなりに上背のある二人よりも若干視線が上にある女は、江角に目を合わせると「久しいのう」と声をかけ、それから首を傾げた。
「次に会うときはぬしが酸いも甘いも噛み分けて、いい男になってからだと言ったが……いささか気が早いのではないか?」
「……何の話だ?」
唐突な話に今度は江角が首を傾げた。次に会うという話をした記憶はない。だが、女は気にした様子もなく、言葉を続けた。
「ああ、あのときのぬしが理解できておらぬのも無理はない。吾もそれを責めようとは思わぬ」
「貴女は、彼と何の約束をしたんです?」
横から切り込む春木を、女は目を細めて見つめ、わずかに笑んだ。
「******の義弟であるな? あれはせっかちでいけ好かぬ。まだあんな幼子を嫁にとるとは、かわいそうではないか」
「……」
神の名は聞き取れなかった。明理は三十代であり、人間の基準でいえば結婚していても違和感のない年齢である。だが、どうやらこの女は多少人間寄りの感覚をしているが、時間に関しては全く異なる価値観を持っているらしい。
「心配せずとも、ぬしが生きているうちに手出しはせぬ。人間の生を謳歌せよ。死後にぬしの魂を吾の元に迎え、愛で、夫婦としてありたいだけじゃ。ぬしの魂は吾にとって、特別なものだが、ぬしの生涯を邪魔しようとは思わなんだ。しかし、ときにはぬしに会うてみたい。そういう理由で、吾はぬしに〝見る目〟を与えたのよ」
女はそう言って、江角に微笑みかけた。女の話をまとめると、死後に江角と契りたいので魂を引き渡してほしい、ということらしい。加えて江角が生きているうちにも時おり会いたいため、江角に怪異を見る力を与えた。なんとも勝手な話である。
――汝は波垂山の神によって呪われているのか。愉快であるなあ。
旧百貨店の地下で聞いた高笑いが蘇る。呪われている、という言葉の意味するところがようやく理解できた。これはよくできた死後発動する呪いだ。だが、呪いとは言うものの死後であればいいか、と思いかけた江角の肩を春木がぐいとつかんだ。
「今、死後ならいいやって思ったでしょ。だめだよ。寿命までこいつが生かしてくれる保障なんかどこにもない。ここで滑落事故でも起きたら、それも死後判定されてこれっきりだよ」
妙なところで鈍いよね、たいちゃんは、と春木は呆れたように言う。春木の言葉に、女は舌打ちをした。
「鋭い小僧め」
「ほらね。だから、ちゃんとこっちから条件決めなきゃ」
春木の言葉に、江角は考える。少なくとも、女に殺されるような状況は回避しなければならない。
「お前、もしくはお前に使役されたものが故意にオレに手出ししない限り、死後を約束する。こういう約束でどうだ」
「吾以外がぬしに危害を加えるのも黙って見ていろということか?」
「それはオレが決めることじゃない。そっちが好きにすればいい」
江角はそう言うと、新しい煙草を取り出して火をつけた。一口吸って女に差し出す。女は黙って受け取り、一口吸って江角に返した。
「成立でいいな?」
江角の確認に女は鷹揚に頷いた。
「構わぬ。ところで一つ訊ねるが、ぬしらがここまでやってきたきっかけを与えたものがいるだろう。それが何か覚えておるか?」
女の言葉に二人は顔を見合わせる。そして、正直に先日の調査の話をしたところ、女は再び舌打ちをした。
「件マガイめが入れ知恵をしたな。まあ、よい。吾も久しぶりにぬしに会えて気分がよくなった」
「――そうか」
「最後に言うておくが、ぬしにやった目は、吾からの賜である。機が熟すまで大事に使い、育ててゆけ。それは今よりもっとよい働きをする。恵まれた環境にあるようじゃから、励むように。息災であれ」
女はそう言うと、ふっと山中の空気に溶けるように姿を消した。江角と春木は大きく息を吐き出した。辺りはいつの間にかヒグラシが鳴いており、日暮れが近いことを告げていた。
「……あれで、よかったの」
低い声で訊ねた春木に江角は答える。
「お前がこっちから条件決めなきゃならねえっつったんだろ。少なくとも、あいつが直接的、間接的に危害を加える可能性を潰した以上はなんとかなる。それと」
「それと?」
「あーなんだ、あいつ、老け専ってやつじゃねえのか。多分オレがジジイにならねえと、手出してこねえぞ」
江角の言葉に春木は吹き出した。
「確かに、明理姉さんのことを幼児扱いしてたのはそういうことか。妙なところが律儀というか現代人っぽい感じしたよね」
「つーわけでおそらく、長生きできるように仕向けてくるはずだから、ジジイになるまでは無事だ」
やれやれ、と江角はため息をついて、手の中を見る。煙草とともに真っ赤な小石を握らされた。
「なにそれ」
血のように赤いそれを見て春木が訊ねる。江角は肩をすくめた。
「知らねえ。煙草と一緒に渡された」
「あ、わかった。珊瑚だ。……老け専って言葉、嘘じゃないかも」
「は?」
七宝の一つであり、古来より強い生命力の象徴として考えられてきたものである。江角の健康と長命であることを願われているのだろうと結論づけたらしい春木はケラケラと笑った。江角は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「笑い事じゃねえんだよ……どうすんだこれ」
「彼女なりの誠意だろうから、大事に持っておいてあげなよ。必要なら数珠にでもする? 懇意にしている仏具店があるからお願いすればやってくれると思うけど」
「……一旦、UPI本部で鑑定してもらってだな」
帰るか、とどちらともなく呟いて二人は山を下りる。見慣れた平桐寺の駐車場が見えてくると、ようやくほっと息をつくことができた。
「そういえば大事なこと忘れてた」
そう言って春木は足を止める。
「自然に会話してたけど、あれは一体、何だったの?」
訊ねられて江角も足を止める。あれは、あの女は、――――。
「何、だろうな」
明理のことを知っていた以上、神に近いものではあるのだろうが、正体がわからないことにゾッとする。特に拒むものではなく、受け入れてもよいものだと思っていたが、なぜそう思っていたのかもまったくわからない。
「……それも、一応UPIで調べる」
「うん。私も姉さんには聞いておいてみるよ」
お疲れ様、と江角の方を叩いた春木の手はなぜか随分重たく感じられた。




