Case0:黄泉渡りの坂2
石柱から一歩内側に入ると、そこはさらに気温が高く、熱風が吹きつけた。
(より一層暑いな……)
やれやれ、と江角は吹き出す汗をぬぐった。こんなに暑いと知っていれば、もっと暑さ対策をしてから来たのに、と情報不足でこの場に放りこまれたことを悔やむ。
(これで熱中症になったら補償下りるよな……)
思わず余計な心配をしてしまうが、同時に数十歩であれば、なんとかなるはずだと信じる。
一歩一歩と踏み出すと、吹きつける熱風の温度はさらに上がった。地獄の釜の蓋が開く、という表現がふさわしい熱風に、上乃木の表現は決して嘘でも誇張でもないだといやでも理解できた。。
(一秒たりとも長居したくねえな……ていうか上乃木さんはこれを二日に一回やってるの正気の沙汰じゃねえだろ)
残念ながら、江角も数年後には正気の沙汰ではないことを当たり前のようにこなすようになるのだが、ここでは知る由もない。
永遠にも思える距離を歩ききり、大岩に着いた江角は、これまでの道のりで起きたことを振り返る。熱風の温度が上がったことを確認したが、それ以外に特に異常なことは起きなかった。
「よし」
戻るか、と踵を返し、石柱の向こうに立つ上乃木を目にした瞬間、江角の周りの空気が揺らぐのを感じた。吹きつけていた熱風はやんだが、全体的にじっとりと湿度が上がり、まるでサウナのようだった。吐く息が熱い。
(――なんだこれ)
さっきまでとは明らかに空気が変わった。生臭く、湿度が高い空間から一刻も早く抜け出したかったが、上乃木の「歩き続けてください」という言葉を思い出す。おそらくあれは、走ることを禁止するものである。
(……あの人こうなるのを知ってて黙ってたな……)
国屋はまったく言葉が足りないため、江角も彼の言葉を頭から信じたりはしないのだが、上乃木の場合は、ある程度江角に正しい情報をくれるので信用したくなってしまうのがよくない。
『せ……えせ……』
背後から耳元でぼそぼそと何事かを囁かれる。加えて、ひたひたという不気味な足音に背後に何か(・・)がいることは確定だった。
これまでに何度か補助で出た現場や、UPIに異動する前にもあったことなので、江角は特に気にすることもなく、それを無視する。江角が無視していることに気づいたのか、耳元のささやきが急によく聞こえるようになった。
『……首を……返せ、首、首、首だ、首を返せ……。わしの首をどこへやった……。首を返せ……』
それを聞いた江角は、本当にこれは無視してもよいものか、という疑問を抱いた。
だが、今はまだ上乃木の「振り返ってはだめだ」という指示が頭にあった。少なくとも江角の自己判断よりは、この現場を二日に一回調査している上乃木の言うことを聞いておくべきだと結論づける。
(真っ昼間なのに下手な肝試しよりタチが悪い)
そんなことを考えながら、なおも江角は一歩ずつ大地を踏みしめて歩く。行きはあれだけ近く見えた石柱がひどく遠くに見えた。
(……おかしい。オレが歩いた距離、伸びてねえか?)
首をかしげつつ、江角がひたすらに歩くことに専念していると、ぐわん、と殴られたような衝撃が後頭部にはしった。後ろから攻撃されたことで、思わず振り返って背後を確認しかけ――間一髪でなんとか踏みとどまる。
(あぶねえ!)
痛む後頭部をさすりながらも歩く江角に、後ろの〝何か〟は限界を迎えたのだろう。急に雷のような轟音が周囲に響き渡った。
『小僧! わしの声が聞こえてなお、無視しているな⁈ 不敬であるぞ! 答えろ! わしの首をどこへやった! 首、首、首だ、わしの首を返せ、首を返せえええええええええええ!』
急に怒気を爆発させた後ろの〝何か〟から攻撃される予感がした江角は迷わず走り出す。このままのんびり歩いていては、確実に自らの首を〝何か〟に取られて死ぬ未来しか見えない。
(何が指示に従えば江角くんの身に危険はない、だ! ふざけんな!)
死んでたまるか、と念じながら江角は走る。背後の〝何か〟から逃げられている気はしないが、懸命に足を動かしていると、徐々に石柱までの距離は縮まっていく。
(あと、ちょっとだ……!)
やっとの思いで江角が石柱にたどり着き、その間を通ろうと、手を伸ばすと生暖かい透明な膜を突き破るような感覚があり――勢いあまって江角は盛大にバランスを崩した。その場にいた上乃木が支えてくれなければ、盛大に転倒する羽目になっていただろう。公務災害事案を避けられたことだけが幸いである。
体勢を立て直し、その場に座りこんだ江角の様子を見ながら上乃木は控えめに訊ねた。
「大丈夫ですか? 鬼でも見たような顔をしてますけど」
不思議そうな顔をしている上乃木に、江角は嚙みつかんばかりの勢いで言い返した。上乃木が先輩であるということは江角の頭から飛んでいる。
「危うく死ぬかと思いましたよ……!」
江角は簡単に、石柱の先で起きたことを上乃木に話す。江角の話を聞くうちにみるみる上乃木の顔は険しくなり、最後まで聞くころには土下座をせんばかりの勢いで江角に謝罪した。
「大変申し訳ない……! 江角くんを危険な目に合わせるような調査のつもりでは本当になかったんです。私やI夜神社の先代が確認するときは、異常に暑いこと以外の異変はありませんでした」
一歩間違えれば死にかけた江角にも怒りと疲れはあったが、本当ですよ、信じてください、と念を押す上乃木がだんだん気の毒になってきた。
「上乃木さんが悪いわけではないのはわかったので、もういいです」
「本当にすみませんでした。至急私以外の応援も呼びます。地獄の釜の蓋が開いているだけならまだしも、そこから何かがこちら側に出てきているとなると、我々だけの手には負えません」
とりあえず一度UPI本部に戻りましょう、と上乃木は疲れた顔で言った。
UPI本部に戻った江角は、医務室――ではなく、神祇班の霊視能力に長けた職員・佐草のもとに連行された。後頭部を殴られたような感覚がした、と江角自身は思っているが、物理的に殴られたのではなく、呪詛をかけられた可能性が高いからだ。
しかし、江角を見た佐草は拍子抜けしたような顔で言う。
「特に何か穢れたものが憑いているとか、霊障があるとか、そういうことはありませんが、あの世のものがこの世にがんばって干渉しようとした痕跡が見えますね。なんというか、薄皮一枚でなんとか致命傷を避けた感じでしょうか」
「あの、もうちょっとわかりやすくお願いできませんか」
佐草の言葉の意味がわからず、江角は手を挙げて質問する。
「もう一歩間違ってたら江角さんの首は飛んでたって話です。ほら、基本幽霊は生きてる人間に触れないでしょ? でも、江角さんたちが調査した現場はあの世とこの世の境で、おまけに今は地獄の釜の蓋が開いていて、だいぶあの世寄りになっています。今日はたまたま命拾いしましたけど、もし運が悪かったら、江角さんもあの世にいるもの、と判定されて首を取られた可能性が高いです。よかったですね」
「……」
にっこりと笑い、心の底から江角の無事を喜んでいる佐草に江角は何も言えなかった。今になって思った以上に自分の命が危険にさらされていたことを理解して、背中にどっと冷たい汗をかく。
そして、自分でもやめておけばいいのに、と思いつつ江角は恐る恐る佐草に訊ねた。
「あの、殴られたときに、もしうっかり振り返ってたらオレはどうなってたんですか」
「さあ、案外平気だったかもしれませんし、そうでもないかもしれません。私はそこまでわかりません。たまたま、江角さんの運がよかった、ということは事実ですけどね」
あまり気にせず、今日は早めに帰って寝て忘れるのがいいですよ、と佐草はのんびり言った。
「……そうします」
佐草にはそう返事をしたが、江角の上司は国屋である。彼の許しがなければ、江角は帰宅することができない。ダメもとで帰宅を打診したが、案の定国屋には「もうちょっと付き合ってほしいな」と却下された。
「何にお付き合いすればよろしいでしょうか、国屋警視」
「江角くん、まだここに来てから日が浅いのに、なんだか僕に対するあたりが強くない?」
なにか国屋にものを申したいときには階級をつけて呼んでやるとよい、という話はUPI内部では有名である。江角も初日に上乃木から伝授されており、今がまさに使うべき時だった。
国屋は江角に「これ」と言って小さな紙の形代を見せた。夏越しの祓の際に用いる程度でしか江角の生活には馴染みがないものだ。
「なんですかこれ」
「僕の式神。これにもう一度現場を歩かせようかと思うんだ」
そう言って国屋は自身の髪の毛を抜くと、形代の真ん中に置き、小さく何事かを唱え始めた。唱え終わった国屋が一度柏手を打つと、形代はむくむくと変化し、全体的に一回り小さい国屋の姿をとった。見事な術に江角は思わず拍手する。
「すごいですね」
「そうだろう? 僕だって伊達にUPIの課長じゃないからね。ということで次は江角くんの番。髪の毛一本くれない?」
国屋はそう言って手のひらを上に向けて江角の目の前に差し出した。これが狙いだったか、と思いながら江角は髪を一本抜いて国屋に渡した。今の術を見る前に同じ要求をされていたら間違いなく渡していなかっただろう。
国屋は手渡された江角の毛髪を見ながら言う。
「江角くん、今日は僕が相手だからいいけど、普通は髪とか爪とか血とかホイホイ渡したらだめだからね」
「はい」
最後になんだか物騒な単語が入っていたような気がしたが、江角は無視して、是と返事した。先ほどと同じようにして、国屋が術を施すと、形代は江角の形をとった。完成した形代を見つめて江角は国屋に問う。
「……なんか、国屋さんより完成度低くないですか?」
「仕方ないよ。だって、初めて作ったんだもん」
江角の形をとった式神は、子どもの落書きのような顔をしていた。いくら江角がUPIで働き始めて日が浅いとはいえ、もう少しまともな顔にならないのだろうか。
「とりあえずこれでもう一度実験しよう。もし、佐草の言う通りならあそこにいた〝何か〟は十分こちらに干渉できる力を持っている。そうであれば、式神に影響が出るからそれを見る」
「二つ用意したのはなぜですか?」
「あれが江角くんに執着していないかを確認するため」
こともなげに言い切った国屋に、江角は再びゾッとする。まだあの背後から迫られる恐怖は鮮明に残っていた。今後、UPIから生活安全課に戻ることがあれば、付きまとい事案の対応には親身になろうと心に決めた。
「一緒に確認してもいいし、ここに残っててもいいけど、どうする?」
どちらも望ましい状態ではないが、一人になるよりは誰かとともにいた方が確実によいと直感する。
「一緒に確認します……」
「うん、じゃあ一緒にもう一回行こうか」
お疲れの江角くんに運転させるのは可哀そうだから、特別に僕が運転してあげるよ、と朗らかに言う国屋に「そこは自分がやります」と江角は申し出た。国屋の運転はお世辞にもうまいとは言えず、万が一事故でも起こそうものならば警察の名が泣いてしまう。




