Case0:黄泉渡りの坂1
Case0:黄泉渡りの坂
時は江角がUPIに配属されてすぐにさかのぼる。
警察官として人並みの経験はあるものの、UPIで取り扱う事故・事件――人智の及ばぬものが原因の大部分を占める――と縁のなかった江角は、UPI本部がある県警の一室にて、借りてきた猫のごとく小さくなっている。そんな江角を前に、国屋は楽しそうに言う。
「新人教育なんて久しぶりだなあ」
わくわくしている態度を隠しきれていない国屋を見ながら、新人教育、という言葉を額面通り受け取ってもよいものか江角は悩む。その後ろに〝教育〟という言葉では済まされない何かがあるような気がしてならなかった。――なお、江角は自らの直感が正しかったことを知るのだが、それはもう少し先の話である。
閑話休題。
「上乃木、ちょうど調査に出るって言ってなかったっけ。江角くんも連れて行ってあげてよ」
のんびりとした口調で言う国屋に、上乃木はやや不審そうに問い返した。
「ええ、かまいませんが……私の担当案件でいいんですか? ほかにもいろいろな案件がありますけど」
「上乃木の案件がちょうどいいと僕は思うんだよね。ほかの案件はほら、ちょっと特殊すぎるから……」
七色に光る温泉とか、山中に出る化け狸とか、海坊主とかさ、と続いた国屋の言葉を江角は聞こえなかったふりをして流した。七色に光る温泉、というところには一瞬興味が出たが、興味を持ったが最後、行かされることは火を見るより明らかである。
「わかりました。じゃあ、江角くん、一緒に調査に出ましょうか。今日は定期的な観察が必要な事象の現地調査ですが、手伝いをお願いします」
「手伝いって……何をすればいいんですか?」
江角はおそるおそる訊ねた。配属に不満は残るものの、仕事をしないという選択肢は江角の中にはない。悲しいかな、江角は非常にまじめな警察官だった。
「私の指示に従ってもらえればそれでいいです。現場についてみないとどのような指示になるかはわかりませんが」
「わかりました」
これまでの江角が現場に出てやることといえば、証拠の採取や周辺住民への聞き取りであり、今回もそのようなものだろうと予想をつける。残念ながらその予想は外れることになるが、現在の江角はまだそれを知らない。
準備を終えて、UPI本部を出ようとした江角に国屋が声をかける。
「江角くん」
「はい」
振り返った江角に国屋は言う。
「ちゃんと上乃木の言うことを聞いてね」
「? わかりました」
念を押す国屋の意図がわからなかったが、江角は素直に返事をした。江角にとって先輩である上乃木の言うことを聞くのは至極当然である。
不思議そうに首をかしげている江角を、国屋は目を細めて見つめていた。
上乃木が運転する公用車の助手席に乗った江角は、調査場所がどこなのかと道を見ながら想像する。この組織に配属されてから、行き先を事前に明かしてもらったことが一度もない。それもまた、江角の緊張を助長した。
「そんなに緊張しなくてもいいですからね」
上乃木に言われて江角は自分が息を詰めていたことに気づく。
「国屋さんからも言われたと思いますが、今回は私の指示に従っていただければそれで問題ありません。ご心配なく」
国屋ではなく、上乃木であれば江角も問題なく信じられる……と思っていたが、UPIにいる人間は全員漏れなく、世の中の科学的ではない現象に対して、よくいえばおおらかに、悪く言えば雑に受け入れることができる人間である。そのため、上乃木に対しても、ぬぐいきれない不信感があった。
「……一応確認しますが、オレの身に危険はないんですよね?」
「ええ、繰り返しになりますが、私の指示に従って行動してもらえれば、江角くんの身に危険が及ぶことはありません」
繰り返される指示に従え、という言葉に江角はちらり、と上乃木を見た。リムレスの楕円フレームの眼鏡の奥に見える目からは特に感情はうかがえず、彼が何を考えているかはわからなかった。だが、繰り返される言葉には江角もひっかかりを覚える。
(警察官たるもの、先輩、上官の指示には従うべきだと叩きこまれているものだろう)
人命がかかっている場ではその限りでないが、常は従うべきだ、と江角は考えている。その常識ともいえることを何度も復唱されるのは、新米からようやく抜け出せた程度の江角であっても、癪に障った。
「さっきから気になっていたんですが、上乃木さんの指示に従うことをやたら強調されるのは一体なぜですか。常識の範疇だと思うんですが……」
江角の言葉に、上乃木は細い目をさらに細めた。出発前の国屋と同じ表情に江角はドキリとする。
「UPIの仕事は、江角くんの常識の範疇を外れるからですよ」
まあ、着けばわかります、と言って上乃木はなめらかにハンドルを右に切った。UPIという組織自体が常識外れであるが――江角はあえてそこにはつっこまなかった。
上乃木が車を停めたのは、M市とY市の境にあるH町だった。人口は一五〇〇〇人弱であり、単独の町としては比較的人口の多い町である。そして、ここをUPI職員が訪れる理由といえば一つしかない。
「――黄泉渡りの神話ですか」
「そうです。江角くんも察しがよくなりましたね」
配属されたばかりの江角に最初に与えられた業務は、管轄地域をはじめとする民間伝承、神話、郷土史等の知識を頭に叩き込むことだった。はいこれ、と笑顔の国屋に渡された本およびファイルの厚さを思い出すと、今でも気が遠くなりそうだった。中には、地域の博物館が独自に出していた図録や研究記録のようなものもあり、一般には流通していない貴重な書物に記載されたもある。
その点、今日の調査の場所は非常に有名な場所だった。
「定期的な観察って一体何をするんですか?」
古代出雲神話において、この場――H町の黄泉平坂はイザナギがあの世に渡った場所だとされる。現在は入口に二本の石柱が立てられ、石柱の間には注連縄がかけられている。ここが、あの世に続いている場所かどうかの確認ではないだろうな、と思わず江角は警戒した。
江角の警戒を悟った上乃木は「そんなに警戒しないでください……と言っても難しいでしょうが」と前置いて、ようやく江角に業務の内容を明かした。
「ここは通常であれば、単なるあの世とつながる場所ですが、たまに、地獄の釜の蓋が開くんです。今日はそれが開いているかどうかを確認します」
「……もう一回言ってもらえませんか」
地獄、という単語が聞こえた瞬間、江角の脳は理解を拒否した。上乃木も苦笑しながら再び話を始めた。
「江角くん、暑さ寒さも彼岸までという言葉を聞いたことはありますか?」
「? はい。一般的なことわざの範囲であれば」
急に話が変わったことに動揺しつつも、江角は上乃木の言葉に素直に頷いた。
「それはよかったです。ですが、今年は、十月に入っても異常な暑さがS県では続いていますよね」
「はい。今日も暑いですね」
江角はそう言って、額ににじんだ汗をぬぐった。通常であれば衣替えのタイミングであるが、連日最高気温は真夏日を超えている。
「その原因がここにあるのです。地獄の釜の蓋が開いていると、異常な暑さがこの世にもやってきてしまう」
「そんなことが……」
「あるんですよ。そういう事象に対処するためのUPIです」
上乃木はきっぱりと言う。その迫力に圧されて、江角は口を閉じた。
「さすがにそろそろ閉まる――というよりも地獄とこの世の繋がりが切れるころだと思うのですが、それを確認するために二日に一回私が経過観察をしています」
二日に一回でいいのかと江角が思ったところで、上乃木は「もう一日は私の特別協力人が確認してくれていますよ」と言った。
「協力人はI夜神社の先代宮司です」
上乃木の協力人はどうやらこの付近の神社の関係者らしい。
「ただ、今日は私の当番なので、江角くんに手伝ってもらいます」
「わかりました。それで、オレは何をすればいいんですか?」
異常な暑さを体感し、辟易としていた江角はようやく上乃木の言葉を信じることにした。
「この入口の石柱から大岩まで歩いて、戻ってきてください。その間に起きたことの報告をお願いします。ただし、こちらに戻ってくるときには絶対に後ろを振り返ってはいけません」
「それって……」
神話とは状況が異なるが、〝見るな〟の禁忌である。古今東西〝見るな〟の禁忌は鶴の恩返しのようなおとぎ話から、神話にまで幅広く存在する。この禁忌を犯した代償も幅広いが、この場で禁忌を破った場合、江角の命はほぼ保障されないといっても過言ではない。上乃木の指示に必ず従うこと、という不可解な国屋の言葉はこういう意味だったのかと江角は理解した。
「何があっても、ですよ。それと、もし何かに気づいても、気づいていない振りをして、そのまま歩き続けてください」
「……はい」
上乃木に念押しされて、江角はうなずく。UPIの仕事に慣れない江角に対して易しく話をしてくれた上乃木がここまで念を押すということは、絶対に守らねばならないのだろうと江角は理解した。
「では、よろしくお願いします」
「了解しました」
江角は石柱越しに大岩を見る。現代においては何の変哲もない広場に見えるが、果たしてその姿はその通りなのだろうか。
(行くしかない)
大人の足であれば二十歩もあれば大岩についてしまう。たったそれだけの距離なのに、江角の足取りはひどく重たかった。




