#前方リア恋面・ゼンポウリアコヅラ
#前方リア恋面・ゼンポウリアコヅラ
ライトを攪拌するために焚かれたスモークは、薄暗い会場の輪郭をさらにぼやけさせる。アーティストの登場を急かすファンの声が、自分の心臓の音と重なる。今日はいつもより緊張していて、それはどうしても負けたくないからだ。
十五万円。ここは十五万円かけた席だ。何枚も積み重ねたCDと当たらない握手券が嫌になって、そんな時に限って他人のマウントが目に入る。取引アプリをいくつもいくつも駆けずり回って、奇跡的に相場よりも少し安いチケットを買えたのだ。それでもこのツアーのために貯めていたお金では賄いきれなくて、次のネイルと美容院を犠牲にして買った席。水商売なんかで稼いでいるファンにはどうしても敵わなくて、余裕もないのに、ほとんど当て付けみたいに買ったものだった。
怖いくらいに気分が高揚して、膝に置いたタオルを何度も撫でる。握ってシワにならないように堪えて、堪えて、じわじわ浮かんでくる手汗がタオルの中に染み込んでいった。スプレーできちんと固めた前髪を意味もなく触る。地下アイドルの女の子が動画で紹介していた「踊っても崩れない最強の前髪講座」の通りに完璧に仕上げたから、ちょっとやそっとでは崩れないはず。目の前の柵は想像以上に低い位置にあって、立ち上がると手すりが胸の下あたりにくるから、支柱の隙間から上半身がまるまる見えてしまう。お気に入りの服がステージからちゃんと見えるのはうれしいけれど、今日はMCをインスタライブで配信するのは難しいかもしれない。カメラでモニターを写そうとすれば、スタッフやアリーナのファンにばれてしまう。今日もできれば配信する、とフォロワーには言ってしまったけれど、録音で我慢してもらおうとスマホの音声録音画面を開いた。案外スマホでも綺麗に録音できると気づいてから、自分用に何度も録音はしていた。ふと、青色にセットしていたペンライトの光が、少し弱くなっていることに気づく。まだこっちのは使い始めて五公演目なのに、いつもより電池の消耗が激しい。舌打ちしかけて、この席ならうちわだけで充分か、と思い直して光を消した。ステージ上手横のスタンド席。最前列。絶対誰より幸せだって、証明する。祈るように、うちわの柄を握りしめた。
会場の照明が落ちた瞬間、大きくなる歓声。客席にペンライトの花が咲く。大きなモニターにつぎつぎと映し出されるメンバーに、会場の温度はぐんぐん上昇していく。思わず唾を飲み込んで少し息を吐いた。モニターにパッと浮かんだ「中村蒼汰」の文字。画面の中の男が微笑んで、グッと喉を掴まれたようにときめいてしまう。何度見ても、やっぱり蒼汰くんが一番かっこいい。息が詰まって、なぜかよだれが口の中に溢れてくる。唇を噛み締めて、叫び出しそうな衝動を必死に堪えた。
なんでだろう、なんでこんなに好きなんだろう。何度も考えたけど、いつまでも答えは出ない。偶然出会って、偶然好きになった。それくらい曖昧で不明瞭なのに、なんでこんなにもわたしの心を離してくれないのだろう。会いたくて触れたくて、でもわたしの手で汚してしまいたくはない。付き合って、手を繋いで、キスをして、と夢想するたびに、わたしなんかと付き合う蒼汰くんなんて見たくないと思った。蒼汰くんが好きだといったガーリーなワンピースを着ても、蒼汰くんが好きだといった茶髪ロングの巻き髪にしても、わたしじゃあの人の隣は似合わない。それくらいわたしには眩しい人だった。それでも、ほんのすこしでもかわいいと思ってほしくて、蒼汰くんが好きそうなワンピースを着て、ボブだった髪を伸ばして、理想の女の子に近づくために必死だった。画面の中の蒼汰くんが消えて、次に映し出されたのは別のメンバー。隣の高校生らしい女がじたばたと足を鳴らすのに、少し冷静になった。この子は定価でこの席にいるのだろう。わたしが十五万かけた、この席に。
首にかけた双眼鏡の重みを感じながら、セットリストを頭の中に呼び起こす。最初の登場はメインステージ。蒼汰くんは中央から少し上手側の立ち位置だから、双眼鏡は使わない。モニターから視線を下げると、アリーナ最前列のファンが、蒼汰くんのうちわを掲げているのが見えた。ファンサをするような曲でもないのに、見ているこっちが恥ずかしくなる。そんなことまでしないと蒼汰くんに気づいてもらえないなら、最前に入ったって無駄だよ。うちわを握る手に力がこもる。手のひらに刺さった爪が痛かった。後ろを振り返って、ざっと周りのファンのうちわやペンライトを確認した。いくつも見える青い光に舌打ちする。でも、今まで会場で見かけた顔や、知っているデザインの名前うちわは見つけられなかった。強いファンはいない。そう確信して、またステージに目を向けた。
モニターの映像が消えて、一度暗転したステージにまた光が集まる。ステージの真ん中に登場したメンバーたち。耳鳴りがするほど大きなの歓声が会場を埋め尽くして、ぶわっと体温が上がった。光を受けたスモークがキラキラ輝いて、その奥に蒼汰くんが見える。まっすぐアリーナ席側を見つめる瞳と、わたしの視線が交わることはなくて、でもその横顔の綺麗さにやっぱり泣きそうになった。客席まで明るく照らすステージライトが眩しくて、思わず目を閉じた。まぶたに焼き付いた光は、わたしの心を抱きしめて離さない蒼汰くんみたいだった。
白い衣装を翻しながら光の中で舞う蒼汰くんの金髪が、汗とともにちらちらと光る。その中に汗とは違う金属の煌めきが見えて、思わず双眼鏡を掴んだ。始まる前にステージの縁に置かれた照明でピントを合わせていたおかげで、蒼汰くんの顔が鮮明に見えるまで時間はかからなかった。耳を半分まで隠す金髪から、シルバーのピアスが揺れている。いつも蒼汰くんが気に入って付けているフープピアスじゃない、細いシルバーのスティックが耳たぶで踊っていた。冬の海をテーマにした曲と衣装にぴったりで、こういうところがどこまでも、いつまでも信じていられる。曲やコンセプトを害さない、むしろそれに寄せたファッションやアイテムでも、その中に蒼汰くんのこだわりや思いが見える。このツアーのために金にした髪色も、ぜんぶ。切なげな表情で踊る横顔を眺められる特権を、いまは抱きしめていられる。
白い衣装からパステル調のカラフルな装いに変わり、軽快なメロディの中、ステージの真ん中から伸びた花道をメンバーが進んでいく。当たり前のようにアクセサリーまで変えて登場した蒼汰くんは、やっぱりステージの上の誰よりも輝いている。春の訪れを思わせる衣装と曲調に、自然と心がふわふわと浮き上がる。シンプルなものでも、すこし派手なデザインでも、なんでも着こなしてしまう長い足と細い首。指の先まで綺麗なのに、歯並びだけは綺麗とは言えなくて、そのなんともいえないアンバランスさがたまらなく好きだった。矯正して骨格まで変わってしまうより、今のままの蒼汰くんでいてほしい。蒼汰くんはその少し歪んだ歯を見せて笑いながら、先をいくメンバーの背中を追いかけていった。そうして、ステージから少し進んだ花道の脇、アリーナ席へ蒼汰くんが軽く手を振ったのが見えた。
途端に心臓が大きく音を立てて、一気に酸素が薄くなったような息苦しさに襲われる。背中にぶわっと変な汗が出て、視界がぶれた気さえした。落ち着かなくなってしまって、初めて蒼汰くんから意図的に目を逸らした。口を押さえたまま大きくため息をついたせいで、固めた前髪が少し揺れる。蒼汰くんが手を振った席に、目を向けた。そうだ、いまあそこに手を振ったんだ。あの辺りは大体関係者席になっていて、メンバーの家族だとか、そういう人ばっかりの席だし、ここはメンバーの雄大くんの地元だから雄大くんの家族がいてもおかしくないし、そもそもあんなの、ファンサにカウントされないし、どうってことない、蒼汰くんは誰にでも優しいからちょっと手を振るくらい、優しさの証拠だから。細かく震える息を吐き出した。センターステージまで移動したメンバーが、また可憐に踊る。桜の花びらが舞うような、柔らかなピンク色が指先まで染めていくような蒼汰くんのダンス。双眼鏡を覗き込んで、蒼汰くんだけにピントを合わせる。舞い上がる指に光るゴールドの指輪が、暖かくて泣きそうだった。
ユニットコーナーが始まって、そうしたら蒼汰くんはステージからしばらくいなくなる。遠慮なく席に座って、双眼鏡の重みで固まった肩を回した。パキパキ音が鳴って、最前列でも双眼鏡が手放せないのが恨めしくなる。今日は埋もれることもないからそこまで厚底にはしなかったけれど、それでもすこし足の裏が痛くて、ふぅ、と息をついた。蒼汰くんがステージに戻ってくるまで二曲あるけど、そこまでゆっくりはしてられない。双眼鏡を置いた代わりに化粧ポーチを取り出して、録音しているスマホはそのままに席を立った。
ユニットコーナーはそれぞれのファンのトイレ休憩になっていて、混むというほどではないもののそれなりにトイレに人がいる。蒼汰くんのユニット曲が見つけてもらいたい曲なわけではないけれど、この後のセットリストを考えると化粧を直すならもう今しかない。洗面台の鏡の前を陣取って、鏡の中の顔を見つめた。すこし鼻周りやおでこがよれてしまっている。ライトのせいで顔が白く飛んでしまうから、ハイライトとシェーディングは濃いめに。チークも軽く入れ直して、すこし下がってしまった睫毛も綺麗に放射状になるように整えた。リップも塗り直して、最後に前髪を慎重に整えたら、いまわたしにできる最大限のかわいいわたしになれる。
席に戻ると、ちょうどコーナーの二曲目の半ばに差し掛かっていて、先ほど整えた髪が崩れないようにまた双眼鏡を首にかけた。隣の高校生が横目で睨みつけてきたのを無視して、席に座って水を飲む。だるそうにしているつもりはないし、後ろいるファンにとっては視界が広がってありがたいはずなのに、これだから現場慣れしてない中高生ファンは苦手だった。最初から最後まで立っていられるほどの体力もないし、いちいち全部の曲を新鮮に楽しむには通いすぎたパッケージで、今日は特に蒼汰くんを見ることに神経を割きたかった。曲が終わりに差し掛かり、蒼汰くんの出番が迫ってくる。ファンサができるような曲じゃないからうちわは席に置いたまま、最後にもう一度鏡を確認しようとしたけれど、視界の暗さに諦めて立ちあがった。
爽やかな夏ソングの前奏が流れ出して、思わず体に力が入った。狙っていた曲が始まる。メンバーが花道やそれぞれのステージに散り散りになって歌う。蒼汰くんがメインステージの上手に来るのは1サビだから、とにかくうちわを構えて待ってあまり暴れすぎずにいたらそれでいい。蒼汰くんは顔を覚えてくれてるはずだし、問題ない。カンペは「まゆのM作って」を出すと決めていて、もうずっとこのツアーはそれを出し続けている。今まではなかなか見つけてもらえなくて、でもそれはわたしがファンサしやすい曲で蒼汰くんの近くにいなかったのが悪い。カンペをこなせなかったとしても、わたしの持つうちわを見つけていつも笑いかけてくれる。蒼汰くんは本当に、わたしを特別にしてくれる。
双眼鏡で追いかけ続ける彼ははじけるような笑顔で、あまりのかわいさに胸がぎゅっとする。センターステージの笑顔から目を逸らせずにいると、蒼汰くんはアリーナ席のファンに指をさした。驚いて、反射的に指の先にいる席を確認した。そこには最古参と有名な蒼汰くんのファンのうちわがあって、舌打ちとため息が出た。まだいたんだ、あのババア。いつもは猫耳ポーズの固定ファンサなのに、今日は指差しって。あんな古参でも蒼汰くんに干されるんだ、って鼻で笑った。何年も通って今更雑にあしらわれるなんて、何やったんだろう。蒼汰くんが嫌がるなんて珍しくて、それでもファンサはしてあげるんだからやっぱりどこまでも優しい。いつもなら馬鹿にして笑い者にするこんなに面白い出来事なのに、今日は妙に鼻につく。いつ見ても無理して若作りしています、といった出で立ちで、視界に入るだけで不愉快極まりないババアだった。旦那の金を使い込めるなんていい御身分ですね、なんて心の中で悪態をついた。
花道を通ってメインステージに蒼汰くんが戻ってくる。慌てて双眼鏡から手を離して、うちわを手にした。「蒼」「汰」の二本とカンペの三本は持ちきれないから、「蒼」とカンペだけを手に構える。曲に合わせて大きく手を振りながら、淡いブルーの衣装を翻して蒼汰くんが近づいてくる。その綺麗な顔が鮮明になっていくほどに、胸が苦しくなってくる。心臓が跳ねるたびに、耳が狭くなるような感じがして音が遠くなる。あぁ、どうしよう。見てくれるかな、気づいてくれなかったらどうしよう。急に泣きそうになって、ぎゅうぎゅう押し付けるみたいに最前柵に身体をくっつけて軽く身を乗り出す。未だアリーナの方を向いている蒼汰くんはわたしに気づかない。おねがい。おねがい蒼汰くん、わたしここにいるよ。開演前よりもひどい緊張で、カラカラの喉を引き絞るみたいに、名前を呼んだ。周りの悲鳴がうるさくて、蒼汰くんの耳には届いてないみたいだった。グッと唇を噛んで、舌打ちしたくなるのを堪えた。うるさい、蒼汰くんのファンじゃないのに。わたしが一番好きなのに。
蒼汰くん!
イラつきに任せて叫んだ。イヤモニを片耳だけ外した蒼汰くんが、驚いたみたいに振り返った。自分の名前を探すみたいに彷徨っていた視線が交わる。あぁ、と思い出したみたいに蒼汰くんが笑って、手を振ろうと片手を伸ばしてくれる。身体が固まってしまって、うまく動けない。顔も強張っている気がする。かわいくないかもしれない。いつも蒼汰くんと目が合うと動けなくて、名前を呼ぶ声もかわいくなくて、ぜんぶ見られていると思うと恥ずかしくて仕方がない。慌ててもがくみたいにカンペを前に差し出した。カンペの文字が見えにくかったのか少し目を細めた後、両手のピースを下に向けるみたいにMを作って、わたしに笑ってくれた。
全部の思いが叶ったみたいだった。膝の力が抜けて半分崩れ落ちたわたしを、去り際に笑った気さえした。あぁ、もう、なんでもいい。隣で睨みつけてくる高校生の女より、古参のババアより、わたしが一番幸せだっていま証明された。だってあんなに頑張った。高いチケットのために欲しいものも我慢して、チケットの売買がうまくいかなくて損もして、CDはどれだけ積んでも当たらなくて、蒼汰くんはなかなか見つけてくれなくて、病んで、死にたくなってたのが馬鹿みたいだった。なんだ、わたし幸せじゃん。蒼汰くん、覚えててくれたもん。古参のババアを干してわたしに一番をくれるなんて、ババアより大事にしてくれてるんじゃん。そうだよね、わたしの方が若くてかわいいんだもん、ほんとに、ほんとに最高じゃん。あーあ、って言いながらしゃがみこんだ。涙でファンデーションが流れてくる。かわいくメイクしたけど、アンコールまで持たなかった。さっきよりブサイクだな、って思われちゃうかも。録音していたデータにも、わたしの馬鹿みたいな声が入ってしまった。でも、もうそんなこと全部、どうだってよかった。わたしが一番幸せだもんね。だって蒼汰くん、誰よりもかっこよく、わたしに微笑んでくれたんだから。
会場を埋めつくす二万人の観客。この中で、わたしが一番かわいくてしあわせ。




