簡単だけど難しい…
「ななな、何を言い出すんだ君は!?と、友達だと!?群れるのは弱い奴らのする事だ。僕にはまったく必要ない!」
きつい口調で反論しようとして噛みまくり、顔を真っ赤に染めた颯の言葉を信じる者は誰もいない。張り詰めた空気は弛緩し、野次馬たちは颯に同情の目を向ける。
「違う!!僕は、僕は君の事が嫌いなだけで……」
颯は必死に否定するが否定すればする程、墓穴を掘る結果になる。さっきまでの異常さは吹き飛び、いつも通りとは言い難いが神経質で常に尖っていた相馬の慌てた様子はずっと人間臭くて、年相応の少年に見えた。
静は颯に呆れたような眼差しを向け、掴んでいた手を離した。前のめり気味になっていた颯はバランスを崩し、尻餅をつく羽目になった。
文句を言おうと静をきっと睨むが、颯の前にどこぞのヤンキーのようにしゃがみ込み、膝に頬杖をついて半眼で颯を見つめる静に出かかった文句を飲み込んだ。
なぜか、マグマのように噴出していた怨嗟の言葉が冷や水をかけられたように固まって喉の奥にこびりついてしまった。
レンズを通さずともくっきり見えるほど近くにある静の顔に颯は言い知れない感情が込み上げてくるのを感じた。切れ長の瞳と意思の強さを表すようなくっきりとした形のいい眉。顎の線は少年の域を出ないながら精悍さを予兆させ、その完成された美貌は虚実ではなく確かに大器が備わっていると感じさせる。
もっと、遠い存在なら良かったのに。
例えば、違う学年だったなら。例えば、別の学校だったなら。例えば、噂に聞くだけの存在だったなら。
丸裸の瞳に映るその人が彼でなければ、抑えきれない苛立ちを感じることはなかったのに。
ーーただ、純粋に…
「お前さあ。ほんとは馬鹿だろ」
「なっ!?ば、馬鹿だと!!?」
颯にとって、生きてきた中で一度も言われた事がなければ、これからの人生で言われる予定のない言葉堂々一位に位置するセリフを静はこともなげに叩きつけた。
間近で見る静の顔に固まっていた颯の内に再び怒りがむくむくと膨れ上がる。
「僕が馬鹿なら世界中の人間の大半が大馬鹿者だ!僕はこの学校の誰よりも優秀で、誰よりも注目されるべき人間なんだ!それを言うに事欠いて、僕に向かって馬鹿だと!?馬鹿は君の方だろう!二階堂静!!」
「うるせえ!耳元で喚くな!」
そう言って静は颯の頭を強めにはたく。衝撃で頭が前後に揺れる。実際はそんなに痛くはなかったが反射的に『痛っ!』と呻くと静は颯の言葉を封じるように片手でぐわしっと頬を掴み強引に目を合わせた。
「はひをふふ!ひはいほう」
颯も特進クラスの例に漏れず整った顔立ちをしているが静に顔を掴まれ、あひるのように尖った唇で文句を言う様は滑稽でイケメンも形無しである。
「お前は問題集なら解けるかもしれねえが、誰でも知ってる簡単な答えを間違えてんだよ。俺じゃなくてもお前より成績が悪くても、運動が出来なくても、すげえ奴はこのクラスにだっていくらでもいる。問題集に書いてある問題よりずっと難しい問題なんてこの世界にはごまんとあるんだよ。お前はちっせー世界で何と張り合ってんだ?ぐだぐだ御託並べる前に言う事があんだろうが」
颯は静の言葉に混乱した。問題集に載ってない問題?劣っているのに優れている?言うべき事?意味が分からなかった。
颯は言葉もろくに話せない時分から問題集を与えられ、幼少期から塾に通い、優秀な家庭教師がつけられた。物心つく前から勉強漬けの毎日で、ゲームをしたり友達と遊んだり普通の子供が当たり前に過ごす日々を勉強に費やしてきた。
けれど、颯にとってそんな日常は苦ではなかった。
それな日常が颯にとっての当たり前だったし、難しい問題が解ければ楽しかった。学校や塾でいい成績を取れば両親はこれでもかと褒めてくれ、誇らしげに颯の頭を撫でてくれた。
それが何よりも嬉しくて、颯は一番であり続ける事にこだわるようになった。
純粋な思いは時を経るにつれ強迫観念となり、歪んでいった。自分は誰よりも優れている。だから誰よりも偉い。純粋な気持ちはいつの間にか傲慢に取って代わり、颯は周囲の人間を下に見るようになっていた。
そんな時だった。
真っ白な傲慢を塗りつぶすように、強烈な光を放つ存在が現れたのは。
その光はあまりに眩しくて、鮮烈で、あっという間に颯の自尊心は粉々に砕かれた。
入学当初から誰よりも注目を浴び、生徒どころか教師の視線も釘付けにした。彼の一挙手一投足が話題に上り、皆が口を揃えて二階堂静を褒め称えた。
颯がいくら努力しようと静はどうでも良さそうに一歩も二歩も先を行く。悔しくはあったが一学年の時はまだ我慢できた。
静は孤独だったから。
周囲に誰も寄せ付けず、必要最低限しか口を開かない。秀麗な顔は常につまらなそうな仏頂面で、静は他の人間とは別の次元で生きているのだと思えば、心が波立つ事は少なかった。
彼は他の人とは違う。そう思っていたから許容できていた部分もあった。それなのに、彼は、静は、青葉浩一と話すようになり、変わっていった。
口が悪く、粗野で、ぶっきらぼうで、くだらない事で怒り、笑い。
これではまるで普通の男子高校生のようではないか。颯と同じく孤独だったはずなのに、クラスの中心で笑っている。
なぜ?どうして?彼は“特別”ではなかったのか?彼が特別でなくなってしまったら、自分はどうなる?
颯の中に生まれのは言葉に出来ない苛立ち。
苛立ちはどんどん膨れ上がり、自分でも制御できないほどになってしまった。頭が霞みがかったように思考は単純化され、静さえいなければうまくいく。そんな妄執に取り憑かれた。
静の頭突きと予想外の言葉に、先ほどまでの抑えきれない憎しみはどこかにぶっ飛んでしまったが、だからといって、静の言う、颯が言うべき事など思いつかない。
数字で優劣を決めてきた颯には簡単なはずの答えさえ難問だった。
眉根を寄せて考えるそぶりを見せながら一向に答えない颯に舌打ちすると静は痺れを切らしてさっさと答えてしまった。
「まずは、ごめんなさい、だろ」
「……は?ほうひてほくははやはははいほ」
「ご・め・ん・な・さ・い、だ。分かってんのか?お前がやった事は誰かを傷つける行為だ。……青葉が怪我してたら俺はお前を絶対許さなかった」
颯は大きく目を見開いた。そうだ。颯がやった事は人道に反する行為だった。別の意味で混乱の渦中にはあるが、先ほどの行動は常軌を逸していたとしか思えない。言葉のナイフなら振るう可能性を否めないが、凶器を振り回すほど倫理観は歪んでいない。しかし、先ほどはナイフがあれば躊躇いなく静に突き立てていただろう。自身の行為に颯は改めて身の毛のよだつ思いをし、なぜか静の言葉にずっと強張っていた身体からすとんと力が抜けてしまった。
していたら、許さなかった。
つまり、静は暴力に訴えようとしていた颯を許そうと言うのだ。
悪い事をしたら謝る。そんな当たり前の、とても大切な事をどうして忘れてしまっていたのだろう。
颯は憑き物が落ちたような気持ちで、素直にその言葉を口にした。
「ほへんははい」
「は?何言ってるか聞こえねえ」
「……あの、二階堂くん。手、離してあげて」
顔を鷲掴んでおいて理不尽な事を言う静に青葉が堪らず口を挟む。静は苛だたしげに舌打ちすると、手を離した。
「すまなかった、二階堂。青葉くんも。僕は人としてしてはいけない事をするところだった。クラスの皆も、騒ぎに巻き込んですまなかった。心から謝罪する」
颯は身を起こし、その場に正座をすると、静と青葉にきっちりと目を合わせて謝罪すると深く頭を下げた。
「僕は謝られる理由は……」
ない、と言おうとした青葉に静は鋭い視線を向ける。青葉は口をつぐみ、空気を読んだクラスメイトたちは気にしないでと首を振った。
静はふうと鼻から息を吐くと、誰からも目を逸らし、独り言のように言った。
「俺はお前も十分すごいと思うけどな」
「……え?」
「だってさ、お前は努力したって胸張って言えるくらい努力したんだろ。俺のこれはチートだから……」
「チート!?やっぱり君はズルを!!」
「ちっげー!そういう意味じゃねえよ!黙って聞け!……俺は勉強が好きじゃねえ。だから勉強なんてしたくない。したくなくても良い順位は取れる。でも、それだけなんだよ。俺は与えられるばっかで何一つ勝ち取ってなんかねえ。お前はすでに一つ、欲しいもの手に入れてんじゃん。勉強してない奴が取れるほど、一位は生易しいものじゃないんだろ?負けてない奴が遠吠えしたって、ただの嫌味だっつうの」
静の声はどこまでも不機嫌だ。どこか不貞腐れてもいるようで、先ほどまでの怒りがこもった言葉より、颯の心にすんなり入ってくる。
どうして、こんなにも静に勝てないと思っていたのか不思議ですらあった。
そうだ。颯は一度だって負けていなかった。周囲の評価を気にしていたのは颯の方だ。
努力はいつだって颯に答えてくれていたのに、何を剥きになる必要があったのだろう。
欲しい物の一つは、すでに勝ち取っている。
「もう一つは簡単だろ?」
静は横目で颯を見て、にっと口角を上げた。颯はもう、答えを導き出していた。
「そこまで言うなら、君の友達になってやる」
それだけ言うと颯はふんっとそっぽを向いた。そっぽを向いた分、耳が真っ赤に染まっているのがよく見えた。
「可愛げのねえ奴!」と静が笑うと、クラスメイトたちはこれで終わったと安堵のため息を吐いた。
激昂していた颯も落ち着きを見せ、静に謝罪した。静も謝罪を受け入れ、この騒動にも決着はついた。これでお開きだろうと解散の雰囲気が流れる中で、静はまだまだ終わらせる気はなかったらしい。
「んで?テストの決着はもういい訳?」
クラスメイトたちは思った。話をぶり返すな!また、颯が激昂したらどうするんだ!と。
しかし、一同の心の叫びに反して、颯は冷静だった。
「今回は引き分けにしといてやる。次こそは僕が勝つがな。その時に青葉くんのお弁当は僕が頂くとしよう」
上から目線の傲慢さは相変わらずだが、不敵に笑い、ない眼鏡をくいっとあげる仕草からは、楽しげな雰囲気が伝わってくる。
切羽詰まって、追い詰められた少年はもうどこにもいなかった。




