7話 兆し
『とにかく生きればいいの。生きてさえいれば』
母の口癖だった。
最初こそ、周囲の人に助けを求めた。
でも、俺の父親の問題なんて内陸ではよくあることで、人によっては「儲かる仕事を見つけたなら君も協力したらいい」と父を擁護する人もいた。
周りの人は助けてくれない。
みんな生きることに精一杯だから。
もうお父さんのことは諦めようって、俺は何度もお母さんに言った。
でもお母さんはお父さんの仕事さえ以前と同じものに戻れば解決すると、きかなかった。
家族でいることを、諦めなかったんだ。
そんな折、俺は父に殴られて、その時は右目が見えなくなった。
次の日にはぼんやり見えてきたけど、それがきっかけでお母さんも諦めた。
お母さんに手を引かれて、お父さんと暮らした家を出た。
電車を使えるお金なんて持ってないから、お母さんは途中で補充した。
へたに売春すると病気をもらってしまうから、お母さんは違うやり方で身体をお金に換えた。
両耳介と左手首から下。
それを〝手作業の技術〟のもとで売り払った。
お母さんが身体を削りながら、なんとか中間地域に辿り着いた。
沈没都市の自然資源の取引をしている場所だったから、オリジナルの作物を育てる仕事が手に入った。
以前とほとんど同じ仕事だったから、お母さんも俺も、すぐに戦力になれた。
社宅も与えられ、お母さんや他の人たちと協力しながら生活できて。
ようやく生きていても怖くない日々になった。
…でも、移住してしばらく、切断した傷から入り込んだ雑菌が原因でお母さんは死んでしまった。
家族でいることを、諦めなかったのに。
体を削ってまで、俺を守ってくれたのに。
どうしてこんな風に死ななくちゃいけなかったんだろう?
内陸の人が見たら、「よくあることだ」と通り過ぎられる。
沈没都市の人が見たら、「沈没都市に還元する力がないから、助ける価値がない」と見限られる。
お母さんが死ぬのは仕方ないんだって、世界が言っているみたいだった。
お母さんが死んだ夜は、真っ暗で、そんな空から雨粒が降っていた。
月も星もない夜だから暗いのか。
雲が黒いから暗いのか。
本当に灯りなんてなくて。
――どれもないから使えない。
俺の声が胸の内でそう言った。
夢みたいな暗い夜は明けて、保護対象となった俺のもとに訪れたのは流未先生だった。
―――――――――――
サクタを見かけたアロンエドゥが数人、彼を追いかけていた。
サクタは息を切らしながら走り、木に隠れて息を整える。
(俺が逃げているから追いかけてんのか、俺を追いかけてんのか…あんな武装集団に追いかけられる覚えなんて、ないんだけど…)
痛いくらい激しい鼓動に、サクタは必死に息を送り続ける。
体力はある方だが、複数人に銃を向けられながら逃げ続けるのはそろそろ限界だった。
パンパン‼と。また発砲だ。
アロンエドゥが怒鳴っている。
サクタは今一度大きく息を吸って吐き出し、――走り出そうとした。
「ちょっと伏せてもらえる?」
聞き慣れた少女の声が近くで聞こえると、サクタはなにかに足を払われた。
「ぅわあっ⁉」
素っ頓狂な声を上げてべしゃっと地面に転んだサクタに構わず、マナはサクタを狙っていたアロンエドゥの頭に2発撃ち込んだ。
サクタを追い回していたアロンエドゥを全員制圧したマナは、無感情に地面に伏しているサクタに視線を落とした。
「…まさかサンクミー飼育施設から本当に出るなんて。そんな馬鹿なことする人、移住試験に落ちちゃうんじゃない?」
幻滅に近いくらい呆れた彼女の声に、サクタはガバッと体を起こした。
彼女をまじまじと見てから出た台詞も素っ頓狂であった。
「‥‥え、銃持ってる…」
「北アメリカ内陸から来たって言ったでしょ。みんな持ってるし撃てるよ」
「‥‥え、そうなの…?アメリカ、怖…」
マナの到着に、サクタはへな…と脱力した。
思考力がおいつかず、鈍い質問を投げかける。
「…追いかけてきたの?俺のこと…」
座り込んだサクタの隣に、マナも腰を下ろした。
「てっきり死んじゃったかなって思ったけど、見た目よりタフなんだね。サクタは」
朗らかな表情のないマナは初めてで、サクタはマナをじーっと見つめた。
言葉を失っているサクタに、マナは少し眉を寄せて彼の額をつついた。
「聞いてる?嫌味だよ、嫌味」
「あぅ。いや、ほんとにマナなのかと思って…」
「…地下6階に戻ればいいのに、なんで地上に出たわけ?」
「え…だって、軍人が…俺が地下6階に戻るとみんなが危ないかもしれないとか言うからさ。…施設の外で暴れてるのが父親関係だったら、まあ、俺が呼ばれるのもあり得るし…」
サクタの浅い推察に、マナは思わず「はぁ…?」と心底げんなりした声を出した。
「そんな偶発的な事態だったとしても、一番安全な場所から出る理由にならなくない?サクタは生きるのに後ろ向きな人?そんな精神状態だと移住試験に受からないよ」
マナの発言に、サクタは平常心が限界になる。カッとなって立ち上がった。
「だから‼死にたくないから必死に逃げてたんだよ‼軍人の指示に従わないのだって沈没都市としてはあり得ないことなんじゃないの⁉俺だって安全な場所にいたいよ‼でも!俺のせいで安全じゃなくなるなら、いられないだろ⁉どうすれば良かったんだよ‼」
ハァハァとまた息が乱れるサクタを、マナは冷え切った眼差しで見つめる。
「‥‥そうだね」
マナはすっとサクタから視線を外し、ただ前を見た。
「君には、どうすることもできないね」
彼女のその声は…落ち込んでいる、とは違う。
悲しそう…それも合ってない。
ただ暗い声だと、サクタは思った。
サクタの呼吸が少し落ち着くと、マナも立ち上がっていつものように朗らかな笑みを浮かべた。
「ま。そういうことなら、とりあえずもう少し施設から離れようか。私のカーアームズも残り2発とマガジンが1個しかないから、戦うより隠れてやり過ごした方が――…」
マナはサクタの腹あたりの服を掴み、思いきり引っ張った。
サクタはまた地面に転がされ、「ふげっ」と呻く。
サクタの居た場所にマナは2発撃ち込み、ガーバーナイフで襲撃者に斬りかかる。
襲撃者にも仕込みナイフがあり、マナの攻撃を防ぐが、銃を懸念して後退した。
襲撃者はすでにいない。
速さから見るに、〝ブースト〟所持者だとマナは辺りを警戒した。
すぐにリロードを済ませる。
なんとかサクタに追い付いたヒヨリだったが、木に隠れてマナたちの様子を窺う。
(初見で私の速さに対応してきたか…。てか今再装填したんなら追撃すれば良かった‼こういう読みの甘さは直んないなぁ~!)
相手は沈没都市の軍人並の戦闘力に加え、探知能力に優れた〝ラダル〟を持っている。
もうヒヨリが隠れている木も割り出されているはずだ。
初手のミスは大きかった。
ヒヨリは開き直り、大声で交渉を試みた。
「ねえ‼いっそさ、このまま君も一緒に私たちと逃げない⁉」
ヒヨリの呼びかけに、マナは一点の木を強く見つめた。
(〝ブースト〟か。防御だけなら対応できるけど、全力の接近戦だとギリだな。気配から感じるに、ギフト持ちはもう一人いる。〝ブースト〟と戦っていながらサクタを確保するのは無理だ)
ヒヨリの呼びかけなど全く耳に入らないマナだが、地面に張り付いているサクタがマナに話しかけた。
「逃げるだって!マナ!もしかして味方なんじゃない?」
「味方って?」
「味方…だから、えっと、沈没都市の軍人の応援とかさ」
「沈没都市の軍人に見えた?」
「いや俺、マナが引っ張ったせいでなんも見えてないから」
「死にたくないんでしょ」
能天気で的の外れたサクタに、マナはまた冷たい声音で返す。
ヒヨリは懲りずに、マナへ声をかけた。
「君、泥蛇の兵士だよね⁉泥蛇がギフトを回収しているなら、いつか君だって回収されるよ!なんのためにあいつらに従っているの⁉」
マナは面倒そうに顔をしかめた。
泥蛇、兵士、ギフト、回収…どれもサクタが後で訊いてくるだろう。
それでも答えないマナに、ヒヨリはもう一度試す。
「--君に〝プレリュード〟が使われているのなら、記憶の操作をされている可能性だってあるんじゃない⁉」
一瞬だけ、マナに隙が生まれた。
その空気を勘で読み、ヒヨリは踏み出た。
〝ラダル〟の感知を頼りにヒヨリへ発砲するも、彼女もギリギリの所で躱しながら距離を詰めてきた。
マナは今一歩動きの遅い自分に舌打ちする。
ヒヨリの腕に装着した刃が、マナの肩口を狙って振り下ろされる。
「--――マナ‼」
斬りつけられそうなマナを見て、サクタは悲鳴のような声で彼女を呼ぶ。
-――同胞がいるなら使える。
自分の声が、胸の内でそう言った。
マナの手元から突然、バヂィ‼と光が弾け、その電撃がヒヨリの顔面へ飛んだ。
ヒヨリは反射的に顔を逸らして直撃を免れたが、左頬と耳があぶられた。
動きが鈍くなったヒヨリに、マナはハッとして銃口を向け直す。
しかし、違う脅威を〝ラダル〟が感じ取り、サクタの肩を抱えてその場から離れた。
ダンダンダン‼とカマがマナを狙ってヒヨリから離させ、牽制射撃を続けながらヒヨリの近くまで寄った。彼女を支え、そのまま撤退する。
銃声が落ち着き、脅威も遠のいたと〝ラダル〟から通達される。
マナはふぅと息をつき、次いで地面に膝をついて恐怖と疲労で息を荒げるサクタを見下ろす。
(…さっきの電撃、サクタのギフト?…でも感覚としては私が使った感じだった)
表情には出さないようにしていたが、マナは想定外の事態に驚愕していた。
確認されている未起動のギフトは〝チューニング〟と〝シメイラ〟だと言われていた。
機能としてはどちらも電撃を扱うようなものではない。
それはすでに〝ボア〟が回収したはずの、〝ブリッツ〟というギフトのはずだから。
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サンクミー飼育施設付近での戦闘はしばらくして終わった。
アロンエドゥはヒヨリとカマが半壊させ、マナが数人制圧し、残りは逃げたようだ。
マナは〝ラダル〟で周囲の脅威が下がったことを確認し、流未たちと合流するため移動する。
ひとまず、マナとサクタは学校からここまで来るのに使ったバスへ戻ることにした。
しかし、あるはずのバスはどこにもなく、残されていたのは下山しただろうタイヤ痕だった。
堪らず、サクタは大きな声で嘆いた。
「お、置いていかれたああああぁぁぁぁッッッ‼」