52話 私は見つけた
流未たちは急いだ。
海岸で戦う第一実行部隊のもとへ。
(なんなの、あの光…)
沖の方。
雷の龍と立ち昇る海が何度も新月の夜空を真っ白に照らしていた。
ソーマが突如息を引き取り、彼の亡骸をコアたちに預けた。
体力的に限界を超えていた第二実行部隊の彼らをそのまま待機させ、流未と他二人の支援員、第三実行部隊からの応援10人、無理やりついてきた日色が悪路を走る。
アスタロトへの有効な対抗手段が手に入った今ならば、最前線で戦っていた第一実行部隊の生き残りの保護ができる。
体力の限界だろうが道が泥だらけだろうが、彼らの足は速く駆け抜けた。
(亮さん…マナ…)
流未は走りながら、かけがいのない仲間とそして。
戦場に送り出すことになってしまった大切な生徒へ。
胸が裂けそうなほど想いを馳せる。
(帰る場所はちゃんと残ったよ。守れているよ。
…そこで終わりにしないで。迎えに行くから)
流未の言葉は確かに彼女の心に届いた。
でもそれはマナを戦場に送り出すきっかけになってしまった。
だから、たとえこの身体が欠けてしまっても、あの子を迎えに行かなくてはならないと流未は己を叱咤する。
『また失うことを考えると全て捨てたくなるけれど、…本当は…、残されたものを守りたい。
そのための力を私は貰ってる。…貰ってたんだ。
だから私は一緒に戦えるよ』
彼女の答えは真っすぐな路へ姿を変えた。
引き返す理由のない強い歩みでそのまま消えてしまいそうなマナを引き留めるためにも、流未たちは人間の枠を超えた戦場へ向かう。
―-------――
何度。
海が割れ、空に穴を開けるような雷光が走ったか。
Fageの異常気象を超える破格の光景はFageの終焉にふさわしいものだった。
海面いっぱいにアスタロトの死骸が浮かび、もはや〝グラビティ〟がなくとも海面に立つことができた。
沖ならばアスタロトも平然と衝撃波を放ってくる。
もとより海で戦うことを想定された怪物だ。刃の尾を振り切る速度も純粋な泳ぎの速度も陸の時より凌駕していた。
泥の大地のようなそこで、マナは今にも止まりそうな呼吸に苦しんだ。
片膝をつき、血混じりの息を必死に繰り返す。
〝ラダル〟から伝達される情報に辟易とする。恨めしそうに空を見上げた。
雲を縫って足場を作り、空で〝ヴィアンゲルド〟が高みの見物をしている。
「…アスタロトが私を追ってこなくなった。
全部倒してあげるから、逃がさないでよ」
挑発的なマナの発言は怪物の耳に届く。
遠目だが怪物の声も〝ラダル〟を起動できるマナに届いた。
「私がアスタロトを制御しているわけではない。
〝ボア〟が戦況を見て判断したのだろう。
…それに、どう転んでもお前の負けだ。アスタロトを使わなくてもそれだけ負傷していればお前はじきに死ぬ。」
「私の負け?それはどうかな。
あなたたち怪物にとっての負けにもよるんじゃない?
現に私からアスタロトを遠ざけるのはそういうことでしょう。
私に、本当に全部倒されそうだなって思ったから引かせたんだ」
マナの挑発的な物言いは存外的を外していなかったようだ。
〝ヴィアンゲルド〟の空気感が鉄のように重くなった。
からかうような余裕を持たせ、マナは言う。
「あなたたちの理念と行動は矛盾してる。
合理的な理念の裏側に、理念の逆へ誘う行動がある。
なら単純に、計画を失敗させることが私たちの勝ちになるはずだよ。
アスタロトを全てここで倒すことは、十分あなたたちにとって負けになるんじゃない?」
「完璧な終焉に向かうが故に、人がそれに抗うことが正解と為る。
そうだな。人間がアスタロトを全滅させるのであれば我々の負けだ。
我々の存在価値もそれで証明される。
――だが、〝フラム〟が抗ってしまえば次の現象毒が星の規模を超えて生まれるだけだ。
それには生存ルートが存在しない。
お前は今すぐに活動を停止し、結晶に戻れ。
お前の役目はとっくの昔に終わっている。」
是非など一片も聞かない、冷徹な刃のような言い方だ。
マナはそんな冷たさに気圧されず、夜の匂いを感じながらほくそ笑んだ。
マナの表情が解せない〝ヴィアンゲルド〟は眉を寄せる。彼女は馬鹿な人間ではないのになぜここまで抵抗するのか理解できなかった。
そもそもこの事態は段階的な現象毒による蔓延だ。
オーバークォーツの花を遥かに超える難解な毒だったそれは、ラクスアグリ島で失敗し、ギフトを巡る沈没都市の見解を経て、しまいにはFageを終わらせる愚行へ走った内陸によって致命的な失敗に至った。
後ろに引けなくなったこの失敗を〝フラム〟の力を使って乗り越えてしまえば〝Causal flood〟をさらに超える現象毒を引き起こす。
それが分からない人間ではないというのに、マナのその笑みは…怪物を下に見るような笑みだった。
「ねぇ、〝ヴィアンゲルド〟。
あなたは魔法使いを知ってる?」
突飛なことを尋ねられ、〝ヴィアンゲルド〟の表情はさらに怪訝になった。
怪物のその反応を見てマナは確信した。
(…なるほど。
ギフトの中…というか黒い箱のなかみにも所謂、序列のようなものが存在するのかも。
〝ヴィアンゲルド〟や泥蛇は〝MSS〟が見ている未来がどこまでなのかを知らない。
…私も見えているわけではないけれど多分、〝ヴィアンゲルド〟よりは聴こえてる)
マナは耳を澄ませるように目を閉じた。
〝聴こえる〟…とはいっても、人間のひとかけらを残したままでは明瞭に聴こえない。
だからこれは…。
「…これはきっと、〝フラム〟が聴くものなんだね」
その一言を零して、マナは〝ヴィアンゲルド〟を見上げた。
闇を恐れぬ一突きの殺気に、〝ヴィアンゲルド〟はすぐさま金糸で蝶番の盾を作った。
--――瞬間、ッッカッアアアァァンン‼
と甲高く夜空を震わせるほどの衝撃がその盾にぶつけられた。
〝ブースト〟と〝グラビティ〟を使い、空まで〝ミエ〟の刃を振るいに来たマナに、〝ヴィアンゲルド〟はグッと奥歯を噛みしめた。
マナを振り払い、金糸を編んで紙飛行機のような形状をいくつも作り上げる。
それをマナへ放ち、距離を取ろうとする。
だが人間性を残すマナが相手では自動的に手加減をしてしまう。
その加減を全て突いて、マナはまた〝ヴィアンゲルド〟の懐まで入り込む。
〝ブリッツ〟で〝ヴィアンゲルド〟の動きを抑えながら、〝ミエ〟で作った大振りな剣を何度も振るう。
無意味でいてヤケのような戦いに、〝ヴィアンゲルド〟は鬱陶しいと苛立った。
「貴様…。私を攻撃したところでアスタロトの侵攻は止まらない。
まだアスタロトを殲滅しようとする方が知性だぞ。」
「それはナグルファルの住民にも、内陸に残った人たちにもできるよ。
今の内陸の人たちなら…きっとね。
でもあなたは違う。
〝私〟が倒さないと、あなたを倒せる存在がいない」
力量でいえば純然な怪物たる〝ヴィアンゲルド〟が圧倒的に優勢だが、本気を出すことが叶わず、且つ他のギフトをまんべんなく使うことができる今のマナのことを殺すことはできない。
本当に本当に。
無駄な抗いのために命をすり減らし、怪物の力を間違えて使う人間のことが。
鬱陶しくてたまらなかった。
「〝お前〟が私を倒す?
――人間のお前では私は倒せない。届きもしない。
それに。
〝フラム〟は起きない。
お前ひとりの燃料で燃える毒ではないんだ。」
金糸が光の束のように集まり、闇夜をやけに輝かせる不穏な太陽となる。
まるで天空から神々しい腕が下りるように、――巨人の拳が作り上げられた。
「墜ちろ。底なしのゴミ溜めに。」
ゴッッッ‼‼
と生き物全てが薙ぎ払われる烈風が一息の間に広がり、流未たちのいる内陸まで届いた。
そんな威力の拳に、マナはとっさに防御機能である〝カーボナイト〟と〝エスタ〟を全力で起動させる。
他にも〝ソルジャー〟や〝フォア〟、〝カタム〟など試すも、怪物相手では出力が全く足りず、拳と共に海へ向かって墜落していく。
(--――ぐ、う)
声も出ない圧力にマナはぐっと目を閉じる。
ギフトを起動させておけば海面に叩きつけられて死ぬことはない。直接殺せないという縛りは働かないのだろう。
だから〝ヴィアンゲルド〟はアスタロトにマナを食わせることにした。
泥蛇も状況を観察しているので、すぐさま退かせていたアスタロトをマナの落下予測地点へ向かわせる。
…もうアスタロトを相手にできるほどの体力は残されていない。
このまま墜ちれば敗北は確定だ。
マナは銀色に変わった瞳を静かに閉じた。
(…うん。ここまでだね)
視界が閉じれば朝の匂いをうっすら感じる。
一晩中戦っていたのだから長く感じて当たり前なのかもしれないけれど。
闇の中を随分と長く歩いていた気がした。
だから朝の匂いが終わりの予鈴みたいだ。
その音は少しずつ強くなっていく。
(本当はあなたの声も聴こえているんだ。
私もあなたたちのいる場所に帰ってきていいよって、言ってくれるんだよね)
もう一度瞼を押し上げれば、身体に残ったかけらたちが見えるようだった。
あなたを見つけたと。
砂に埋もれかけていたマナの宝物を指さした先生。
自分と同じだと。
あの時あの場所で、同じ友人を失くした彼。
逃げた方が楽な世界で、彼は苦しくも辛い、やり直しを選んだ。
…あなたが〝フラム〟で良かったと。
声も届かない距離でも、そう伝えてくれた彼女。
本当に私で良かったのかな、と一粒の不安は残る。
でもこの決断に後悔は一切ない。
〝エルー・ザ・エフ〟と呼ばれるその場所を思い浮かべる。
きっとそこには、サクタの友達がいる。あの時出逢った彼らが、そして彼らが出逢った人達が。
大小の筏を繋げるように誰かの宝物を守って運ぶ。
サクタが守りたかったものが生きる街に想いを馳せて、マナは呼びかけた。
『ねえ、見てみたいと思わない?』
――…。…。
『私は見てみたい。
失敗だけで終わらせなかった今日がどこに繋がるのか。
〝あなた〟には聴こえているんでしょう?
これは私ひとりの燃料なんかじゃない。
内陸に残されたもの全部だよ。
要らないって置いて行かれたあの人たちをいつか、連れて行ってあげて』
〈…。…。星を超えた現象毒となっても、その未来に価値があるとでも?〉
『ああ、やっと答えてくれた。
さぁ?
でも私が内陸に残った人を守る選択をした時点で、あなたを燃やす燃料は溜まったはず』
〈私は内陸に残った人々を守るために稼働するわけではない。
それは理解しているな?〉
『分かってるよ。分かってる』
〈お前が分かっていても、他の人間は私の真価を理解しないだろう。
〝ヴィアンゲルド〟は間違っていない。〉
『…でもこのまま私がただ死んでしまったら、内陸の人の生存率は一気に低くなる。
結局、〝今だけでも〟みたいな使い方になっちゃうけど、それでもね。
生きてさえいればきっと、なんとでもできる。
だからお願い』
一秒もない間に、身体の中にいる怪物に懇願する。
すると怪物は渋るように…、いやマナの決断を揺るがすようなことを問いかけた。
〈…このまま戦場を後にして生き残りが生きる場所へ帰ればいい。
それを選択するならば、私は再び眠ろう。〉
怪物らしくそそのかすので、マナは少しだけ困ってしまった。
でも。
〝――――…今でも忘れられない。
自分のことを見失っていた俺を見つけてくれたのは君だったんだ〟。
暖かくて力強い言葉が怪物の甘言を押し返す。
キースはマナとの出逢いが勇気になったのだと言っていた。お返しでもされるように、今は彼が遺した言葉がマナの勇気になる。
心の底から満ち足りた笑みを浮かべて、マナは残される人々へ激励を贈った。
「〝私〟ではないけれど、待ってるよ。
あなたたちが守った価値が繋がる未来で。
…私もあなたたちを見つけたよ」
朝の匂いがいっそう強くなる感覚をさいごに。
〝彼女〟は目を閉じた。
朝日が地平線を一閃して、黒い海に熱が広がっていく。
〝ヴィアンゲルド〟の放った拳が海面に落ちる、その瞬間。
――神々しい拳は横に薙ぎ払われた。
太陽を隠すほど大きな水柱を立ちあげて、水滴が光の粒のように飛び散った。
海の姿が露わになればそこは凄惨だった。
内陸の戦艦がいくつも粉々になり、アスタロトの大量の死骸が浮かび、黒煙がたちどころに上っていた。
そんな汚い海の上で、青く淡い光を帯びた蝶々が乱舞し始める。
マナの時は青い蛍のようなものが、今ではラクスアグリ島にいた青い蝶に似た形状で飛び回っていた。
そんな海面の光景に、――〝ヴィアンゲルド〟は今までにないほど驚愕していた。
「…正気か。貴様。」
琥珀色の瞳にも朝日が入り、鉱石のように彩色が揺らぐ。
美しい瞳だが、全てを押しつぶす殺気に満ちていた。
〝ヴィアンゲルド〟の殺気の先には。
マナの風貌と背格好はそのままに。
だが銀色の瞳と透き通るような金髪を持ち、後頭部からは長い房の編まれた金髪が三本垂れていた。
異質さは〝ヴィアンゲルド〟によく似た――――
〝フラム〟が海面に立つように浮かんでいた。
つ、と無感情に視線を上げて見つめる〝フラム〟に、〝ヴィアンゲルド〟は静かに激昂した。
「これでは意味がない。これまでの全てに意味がなくなる。
お前が内陸に残された人間の未来を保障してしまえば、お前が〝MSS〟の代わりになるだけだ。
人間が我々に勝たなければならないのに。
人間はお前に全てを任せるだろう。二の舞だ。
Fageの失敗が形を変えて繰り返されるだけ。
なぜだ。
なぜ起きた。」
朝日を否定するように、暗雲がとぐろを巻いて〝ヴィアンゲルド〟の周辺に集まる。
せっかく海を暖めた熱が暗い影によって冷まされるようだ。
自身の身体が影に覆われながら、〝フラム〟はゆったりと口を開いた。
「ああ全くだ。起きるつもりなんて全くなかった。
この世界は失敗している。行く末も知れている。
私が起きることの意味すらないほどに。
それでもここが終焉ではない。
なぜなら完全な終焉たる〝Causal flood〟も失敗したからだ。
内陸には重たく面倒な選択を選んだ〝誰か〟が残った。
お前は言っていたな。
私は〝量〟で起きると。
少し違う。
私は〝事実〟で起きるんだ。
事実が完成されるにはいかにも〝量〟が必要だ。そう思うのもおかしくはない。
だが決定的な条件はそれではない。
無価値だと定義づけられた人々の未来を残すために宿主が私を使えば、どちらにしても私は起きていた。
…この事態を防ぎたかったのなら、宿主のことをソーマたちの攪乱のために利用せず、殺しておくべきだったな。」
最後の言葉は苦言で、いっそ呆れていた。
ゴミにも価値を見出す泥蛇の特性が仇となり、結果として慢心となった。
ニーナが聞いていたら馬鹿にされて笑われていた状況だろう。
〝ヴィアンゲルド〟は忌々しく思いながら首を横に振った。
「〝フラム〟。なんであれお前の起動はあまりにも賭けが過ぎる。
もうこれ以上、因果の毒が強くなってしまえば本当に人々は生き残れない。
ナグルファルに逃げ込んだ〝誰か〟に託せ。
お前が起きるくらいならまだ、ナグルファルの乗船者に未来を託した方がマシだ。
我々は毒でいることに価値があるが、それは解毒方法がある毒に限る。
お前は違うだろう。
誰もお前の真価を理解しない。
そのまま進めば…無意味な失敗となる。
そうなってしまえば毒だってただのゴミだ。」
「ナグルファルに乗船した者は必ず絶える。彼らに賭ける価値はない。
それに…、沈没都市の人間の身体には洗練された金属が蓄積され過ぎている。
―――連れて行けない。」
〝フラム〟の返答に、〝ヴィアンゲルド〟は顔に影を深く落とした。
暗雲が膨らむと暗がりが濃くなり、〝ヴィアンゲルド〟の瞳がまさしく怪物のように煌々と光る。
「…やはり〝あちら〟を使うつもりか。
許さない。
これまでの全てを無にする選択をよりにもよってラクスアグリ島の宝が選ぶなど。
お前はここで破壊する。
失敗することに意味があるとするならば繰り返さないことだ。
だがお前は繰り返させる。星を超えてまで、価値のない失敗を。」
〝ヴィアンゲルド〟は異常気象の雲を絡めとり集め、〝フラム〟に向けて放った。
それと同時、〝フラム〟の周囲から一斉に青い蝶が飛び立つ。
お互い怪物同士だ。本気で破壊し合える。
雷雲の竜巻がいくつも曇天から〝フラム〟に落ちる。
空を縦横無尽に飛び回る〝フラム〟は雷雲の竜巻を回避しながら身体の一部を刃に変える。そのまま〝ヴィアンゲルド〟に突っ込んだ。
〝ヴィアンゲルド〟は金糸で紙飛行機のような形をすでに幾万も作り上げている。花火のような破裂音がけたたましく響き、金糸の紙飛行機が一度に飛来する。
〝フラム〟の青い蝶たちが燕のような形になると、金糸の飛行機を止めるようにぶつかった。
互いの背中を狙い合った長距離の攻撃が砕け散る中、〝フラム〟と〝ヴィアンゲルド〟は空中で激しく斬り合う。
〝フラム〟が〝ヴィアンゲルド〟に一手を入れようとするたび、雷雲の竜巻が間に入って邪魔をする。
雷雲の竜巻を回避した時、〝フラム〟の動きが一瞬止まった。
背後からとんでもない気配を察知した。
〝ヴィアンゲルド〟による金糸の紙飛行機ではない。これは――。
「酸性渦まで――…。」
それはFageの潜水艇すら爆散させる〝露出した海の胃〟だ。
金糸で海流をも持ち上げ、雷雲の竜巻と酸性渦で〝フラム〟を挟もうとしていた。
Fageの異常気象は怪物たちにも有効だ。
一撃で液状化させられるだろう。
〝フラム〟は酸性渦をどうにかすることを早々に諦め、高速で雷雲の竜巻に突っ込んで逃げることを選んだ。
だが雷雲の竜巻も簡単に突破できる代物ではない。
(耐久時間は1分)
圧力と雷によって皮膚が割れれば、黒曜石のように艶やかな身体のなかみが現れる。
今〝エア〟を使うと攻撃手段も透過してしまう。だから身体の耐久力を〝フォア〟で維持するがみるみる人間を真似する部分が剥げていく。
身体が砕け散る前に。
その速度は〝ブースト〟の最高値にまで上り、光の線となって。
腕に〝ミエ〟を起動させ、翼のような刃で雷雲の竜巻を切り開いた。
光の線は酸性渦が〝フラム〟に届くより早く、その勢いが空を覆っていた曇天を穿ち地平線まで雲を追いやった。
朝日と青空が一気に戻ってくる。
〝ヴィアンゲルド〟は目の前にいる〝フラム〟に驚愕する。両目を見開いたまま動けない。
あまりにも驚異的。
怪物すら畏怖を抱く、怪物。
〝ヴィアンゲルド〟の身体は真横に切断されていた。
だが驚いたのは〝フラム〟も同じだ。
「…くえないな。泥の蛇。」
ほんの少し苛立ちを込めて〝フラム〟は呟いた。
〝ヴィアンゲルド〟の身体は金糸に解けていく。
…この〝ヴィアンゲルド〟は本物ではない。金糸によって作られた分身だ。
本物はとっくにキヴォトスの機能として搭載されていた。
〝ヴィアンゲルド〟が飛ばしていた金糸の紙飛行機も金の糸が雨のように落ちて力を失う。
金糸によって持ち上げられていた酸性渦も龍の亡骸のように海へ落ちた。
ドオォオン…‼と下から酸性渦の倒れる音が聴こえる。
消えゆく〝ヴィアンゲルド〟は〝フラム〟にさいごまで苦言を残した。
「…臨界点が本当に存在しない場所で人々の未来が繋がると思うのか?
この世界の正解は…臨界点が存在するこの場所で、死力を尽くして現象毒を克服した人々が生き直しをすることだったのに。
理念の真価が叶わなければ臨界点が停止した意味すらなくなる。
貴様は…。自分がどうあるべきかを理解しているというのに…。なぜ…。」
〝ヴィアンゲルド〟の声は金糸が解けるほどに遠くなる。解けた金糸は次々と流れ飛ぶ。
太陽に照らされてキラキラと光る金糸に目もくれず、〝フラム〟は海を静かに見下ろした。
「確かにこれは大きな失敗だ。
何度も何度も繰り返した果て、そしてここでも間違える。
お前たちには無価値にしか見えないだろう。
それでも。」
〝フラム〟の視線は少し遠い。
動けなくなった多くのアスタロトが倒れている海辺を見ていた。
そこには第一実行部隊を迎えに来た…〝エルー・ザ・エフ〟の住民がいる。
怪物の視力なら全員顔が分かる。
宿主が知っている顔は流未と日色くらいか。
彼らもまた、雲を蹴散らし空に浮かぶ怪物を見ていた。
彼らを見つめたまま〝フラム〟は続ける。もう〝ヴィアンゲルド〟の姿がなくとも。
「ここで残された人々は機械仕掛けの理念が両翼の約束へ姿を変えた場所にたどり着く。
ああそうだな。そこに臨界点は存在しない。
たとえ臨界点が行ける場所だとしてもアレは行かないだろう。
…問題ないよ。ニゲルアルカの同胞よ。
私が現象毒となっても、臨界点が与えたこの世界の意訳はきっと覆る。
とてつもなく時間はかかるだろうが、この世界の終焉はそこにある。」
太陽が昇れば今日が始まる。
日差しは、海に蔓延るアスタロトのうなり声を鮮明にさせ、生き残ったものへ熱を与える。
終焉によく似た景色の中、〝フラム〟はゆっくりと陸へ降り立った。




