50話 救えない存在
「あなたを否定したって得るものなんてなにもないよ」
「さぁね」
夕日はとっくに境界線にたどり着いて海がオレンジ色へと変わる。
ニーナの解答に違和感を覚えたマナだが、彼女が〝ブースト〟で距離を詰めてきて即座に応戦する。
〝ラダル〟で彼女の軌道が直線状だと分かる。
アスタロトの脅威はまだ遠く、海岸の姦しい戦闘の音も遠い。
これならば。
〝声〟は絶対に届く。
「――〝止まれ〟‼‼」
〝ソルジャー〟でニーナの動きを止めようとして――
マナは失敗したと気づいた。
ニーナは止まらない。
驚きと原因に気を取られ、マナの思考が次の手を考えられなかった。
ニーナの〝ミエ〟の槍がマナの左横腹から右肩にかけて斜め上にざっくりと入る。
〝ラダル〟でかろうじてわずかに後退できたものの深く広い傷となった。
マナの視線はニーナの耳元にある。耳栓だ。
マナの口の動きを見てなんとなく会話をしていたから、先ほど違和感のある解答だったのだ。
(まずい――)
視界はやけにゆっくりだ。
ニーナが〝ミエ〟を構いなおし、マナの心臓に向けようとしている。
〝カーボナイト〟を起動したところで、起動していない箇所を狙われる。
〝エスタ〟は――いやもう効果範囲より刃が入っている。間に合わない。
〝フォア〟なら…それも二手目があるニーナが有利だ。あの〝ミエ〟を止めてもニーナの拳が入ってくる。〝エア〟も同様だ。
ニーナも〝ブースト〟を使えるから回避も無意味。
あとは。あとは…。
『たとえ失敗に終わったってそれが全てにはならないよ』
心に刻まれた本物の声を思い出す。
(-――〝心〟ー…)
果たして。
こんな人間臭い罠がニーナに通用するのか。
失敗したら心底嘲笑われるだろう賭けを。
刹那の覚悟で賭けた。
「ニーナ!やめて‼」
その声はニーナの背後から。
切願を縋り叫ぶような――少年の声。
…。
…。
…。
オレンジだった海はじんわりと暗さが滲んでいた。
海面で戦っていた彼女たちの身体を暗さが徐々に包むようだ。
滴り落ちる赤い鮮血が海中へゆらりと下がり、煙のように沈む。
どちらも流血しているが、より多く血を流したのは――。
ニーナだった。
少年の声に混じって発砲されたマナのカーアームズK9の弾丸が、ニーナの胸に穴を開けた。
染み込んだ戦場での所作はここでも違えない。確実に息の根を止めるためにマナの身体は自動的に二発、発砲していた。
ニーナの〝カーボナイト〟は起動していなかった。
ニーナにとってもマナとの戦闘は余裕のあるものなどではなかった。守備は〝ブースト〟と〝ラダル〟で補い、速度を遅くする〝カーボナイト〟は脅威が高い攻撃のみ、部分的に起動させていた。
ニーナはマナに届かなかった槍を下ろし、ゆっくり膝を海面につける。
重い呼吸を吐き出しながら視線だけ背後に向けた。
海面に反射するほど精巧に作られた…ルカの姿がそこにあった。
本物そっくりのルカはやがて光の粒となって透け、夜が滲む空へ消えた。
ニーナは耳栓をぽいと海に捨てて、自嘲を浮かべる。
〝イリュジオン〟にはどうやら、耳栓も…きっと目隠しも意味がない。
記憶にこびりついた〝本物〟を再生させることが、このギフトの本質だから。
「…ここに来て人畜無害な幻を使うとは。
お前の声だったら違ったんだが…。
〝ラダル〟じゃ優先順位の低い脅威は後回しだ。
これは立派な負けだな」
胸から腹にかけて…そして足元へ流れる血が海へ揺らいで落ちていく。
〝グラビティ〟は使用者の手から離れた対象まで効果は発揮されない。だから落ちていく血の揺らぎが、まるでさかさまの煙みたいで綺麗だった。
そんなことを思いながら視線を上げると、マナがやたら驚いた顔をしていた。
ニーナはおかしそうに笑う。
「なんだ、その顔。あたしから一本取れて驚いているのか?」
以前から一本取りたいとマナが闘志を燃やしていたことを知っている。
いっそのこと褒めてやろうかと思ったが、マナは別のことで驚いていた。
「…ニーナ」
「なんだ」
「あなたにとって私やルカってどんな存在だったの?」
これは…彼女と戦う直前に尋ねた質問と似ている。だがそれよりもっと感情的なものだ。
同じでいて全く違う質問だとニーナも分かっている。
彼女は震える瞼で一度瞬いたものの、自嘲を崩さなかった。
「さぁね」
「…分からないの?」
「理解する意味を感じない」
「でも〝ラダル〟で感知した脅威が低かっただけならニーナはただ無視できたと思う。
…まさかあなたが、あの子の声に動きを止めるなんて思わなかった。
…ねぇ、ニーナ…」
「なんだよ。泣くなよ」
声が震えていくマナの瞳から次々と涙が落ちていく。
〝フラム〟を起動させたせいでマナの瞳は色が変わっている。おそらくは怪物の色なのだろう。
鉱石のような銀の瞳から、暖かい雫が落ちる光景は異質さと美しさがあった。
マナはカーアームズK9を海面に降ろし、そのまま手放す。
今のマナであれば身体から離れた物体も〝グラビティ〟で浮かせることもできたが、…その力を拳銃には与えず、それは鮮血たちと同じように沈んでいく。
視界が滲んでも、ニーナのガンショルダーにカーアームズK9があることが分かる。あれもこれから沈んでしまうと思うと自分だけ持っている気持ちではいられなかった。
「……あなたには本当に、泥蛇の手足でいる役割しかなかったのかな。
どこかで、誰かが、あなたに必要な言葉を伝えられていたら…。
もしそれが私だったとしたら…もっとはやく私がそれに気づいていたら、こんなことに…、
…こんな場所で、こんな風に…
終わらずに済んだんじゃないかなって…。
だって…〝誰か〟の声が、あなたの身体を一瞬でも動かした…。…それなら…」
ニーナのことを嘆いて泣くマナを、ニーナはじっと見つめる。
ああやっぱりこの子だけは自分の特別だと骨身に沁みて思った。
他の人であったら、相変わらず余計な連中だと思っていたところだ。
(…同情や偽善に見えないのはきっと…この子があたしと同じ場所にいる未来を思い描いているからか…。
それとも、今まで同じ檻の中にいたからか。
…不思議だな。同じ場所にいる幸福より、お前があたしのいる場所から出て行くことの方がどうしてか満たされるんだ。
お前はせっかく、同じ場所に行こうとあたしに手を伸ばしているのにな)
少しずつ呼吸ができなくなる感覚を覚えながらニーナは軽く首を振った。
「お前には私を恨む権利があるよ。
そこまで善良に落ちたら、お前はいつまでも救われない。
優しい人間はこの世界じゃ生き残れないようになってるんだから。
そういう風に思わなくていい」
「私はあなたから欲しい言葉を貰ったんだよ‼‼」
怒りでもない。
悲しみでもない。
それこそ恨みでもない。
マナの大声にニーナは目を見張った。
心が剥き出しているように泣くマナは、嗚咽の中必死にニーナに伝えた。
「〝待ってるよ〟って…
ずっと誰かにそう言って欲しかった。
どうしてその言葉が欲しかったのか、私はもう思い出せないけど…、でも‼
それを言ってくれたのはニーナだよ‼︎他の〝誰か〟じゃない‼
言葉と一緒にあなたがそばにいてくれたから‼
泥の中でも息ができた!
あなたがいたから私はここにいる‼」
それはニーナの全てを肯定するような宣言だった。
ニーナは雫色の瞳を静かに閉じて、マナの言葉を聴き入れる。
心ってどこにあるんだろうか。
強く響く彼女の言葉は確かに身体の中に入るのに、どこに落ちたのか分からない。
落ちた場所に心とやらがあるはずなのに。
マナの言葉を追いかけてみたけれど、穴みたいに深い、深い…身体の底へ落ちて見えなくなった。
ニーナは諦めて目を開く。
マナが目の前にいる。
Fageのゴミである自分は、他の人間から見ればとっとと死ねばいいと思われる存在だ。そのことに憂いも抵抗もない。むしろ正しいとさえ思う。
そんな自分と全てをもってして戦ってくれた。
本物の価値があったのだと叫んでくれた。
今なら自分の価値が、…生き方は一つではなかったのではないかと、…本当にらしくない、眉唾の可能性を感じた。
(…でも十分だ。
あたしはお前を見つけた。
お前があたしを見つめた。
あたしにとってこの命の価値はこれだけでいい。もとよりなにもなかった身体だ)
空虚に響いたマナの言葉は余韻を残す。
せめてこの残響を自分の心だと思うことにしよう。
ニーナはそんな残響に笑みを零しながら血だらけの手でマナの頬に手を伸ばして柔く撫でた。
「マナ。
それでもね、お前を救ったのはあたしじゃない。
あたしは誰も救えないし、あたしのことは誰も救えない。
…理念通り、生き残る価値のある人というのは確かに存在していると思うんだ。
それは同時に、救えない存在を証明しているとあたしは思う。
救えない存在は生き残る価値のある存人にとって毒だよ。
そうあるべきだ。
そうあってくれたら、生き残る価値のある人が間違えて捨てられてしまうことはないはずなんだ。
毒が毒である価値はそれにある」
価値と毒の境目が溶けている内陸では、どんな人間が死んでも価値は同等だ。
優しい人であっても。人殺しであっても。
沈没都市は優しいだけでは拾わない。
人間性と能力、両方が揃って価値になる。明確でいて例外がない理念が全てだ。
マナは凪のように静かな絶望をニーナから感じ取った。
「助かるべきだった」と人に価値を感じない彼女ですら思った誰かがいたのだろう。
だがその存在は内陸でも沈没都市でも生き残る価値がないとされた。
本来だったらそんな風に世界に絶望して、生まれた責任を果たすだけの、有象無象のひとりとなるニーナを。
拾ったのは泥蛇だ。
だから彼女は二つの選択肢を手に入れることになった。
無害で無駄な生涯を選ぶか。
怪物が用意した使命を選ぶか。
…結局、どちらを選んでもニーナにとって価値ある針路ではないことを、彼女自身よく分かっている。
故に彼女にとってもFageとはゴミだった。
…それでもたったひとり。
価値の天秤も証明も必要のないひとりを見つけた。
ニーナの毒を求め、拒み、そして見送る愛しい存在の名前を。
彼女は大切に呼んだ。
「マナ。
お前にはお前が見つけた〝帰る場所〟がある。
〝待っている〟と…あの時の言葉がマナの心に残ったのならいつか、今度はマナが誰かにその言葉を贈るんだと思う。
そんなお前の未来をあたしは心から望んでいる。
だから…帰る場所を間違えるなよ」
帰る場所がある。
マナは彼女にかける言葉が今の自分にはないのだと痛感する。
(愛している人のいる場所が正しい場所だったら良かった)
本当に偶然、マナとニーナはそうではなかった。
愛している人がいる場所は泥みたいな毒が溜まっていて、そこから歩き出さなくてはいけなかった。
マナは歩き出し、ニーナは留まった。
二人の針路が重なることは二度とない。
ニーナの指にはめられたキヴォトスが銀色からじわじわと黒色へと変わった。
呼応するように、ニーナの瞳から血の通った光が失われる。
使用者が死亡すると、キヴォトスの機能は自動的に停止する。彼女の身体が足から海へ吸い込まれるように沈んでいく。
マナの頬に添えられた彼女の手も何もかも。
底のないゴミ箱へ落ちていった。
「ニーナ…」
マナは…この世で一番、心の深い場所にいる人の名前を呼ぶ。
けれどサクタやキースの時とは違って彼女に手を伸ばさなかった。
―----…………
彼女がいた場所に一本、煙草が浮いていた。
手に取ろうと指先が触れると、一滴の雫に溺れてニーナの後を追いかけた。
(煙草なんて、吸ってたっけ)
胸の中に零しても、口から零しても、その疑問の答えは返ってこない。
彼女は二度と拾うことのできない、深い、深い場所へ行ってしまったから。
日は完全に海は落ちて、蓋が閉じるように太陽の線が闇に消えた。
それでも〝ラダル〟が使えるマナには前がよく見える。
水面が不自然に揺れている。
マナの瞳からさいごの涙が落ちた。もう泣くことはない。
つ、と前を真っすぐ見据える。
先には――小麦色の長い金髪を海風になびかせる――〝ヴィアンゲルド〟がいた。
見えないくらい金糸を絞り張り詰めた上に立ち、〝ヴィアンゲルド〟の足元は海面から少し離れている。人間が見たら浮いているように見えるだろう。
その存在の空気感が水面を不自然に揺らしていた。
〝ヴィアンゲルド〟は糸を海中に垂らし、そして引き上げる。
黒い繭がその手に収まった。あれは〝ラダル〟だ。
闇の中でもうっすら燃えるような琥珀の瞳を、〝ヴィアンゲルド〟はやけにゆっくりマナへ向けた。
「…以前言ったことを訂正しよう。」
「なんの話」
お互いの声は冷たい。
互いに抱く感情はなにもなく、だが目的が明確に違う両者の眼差しはすでに敵対していた。
〝ヴィアンゲルド〟は金糸で小鳥を編むと、〝ラダル〟を咥えさせて飛ばした。
泥蛇のいるどこかの沈没都市へ運ばせるのだろう。
これで。
キヴォトスの完成に必要なギフトは、あとは〝ヴィアンゲルド〟だけとなった。
「お前は弁えていると言ったが、そうではなかったのだな。
ギフトは本来、宿主一人分の燃料で十分だ。重要なのはギフトを使いこなせるかどうかの適性であって量ではない。
…だがお前の場合は〝量〟だ。一人分では足りないはずのギフトのくせに宿ることができるのは一人だけ。
だから使えないはずだったのに。」
怪物から発せられる険しさは息苦しいほどに硬かった。
以前までであったらこの息苦しさに命の危険を感じただろう。
でも今のマナは。
異様なほど冷静でいる。
そんな自分に少し気味悪く思ったが、そう思うということはまだ。
まだ…あと少し、時間があるということ。
怪物になる一歩手前のマナに敵意を込めて、〝ヴィアンゲルド〟は一瞥する。
「この世界は使えないなら金塊だってゴミになる。
理性と知性があるならそのまま海へ堕ちろ。
自分の存在にまだ価値があるなどと己惚れるのなら――〝フラム〟が起きる前にアスタロトに食われてしまえ。」
海が低く、星の中心に近い場所で轟いた。
この轟きは人では到達できなかった深度で蠢く、鉄を好み泥を纏った怪物たちだ。
マナとニーナの戦闘で怯んでいたアスタロトの気配が、海の遥か底から吐き出されるように迫った。




