47話 あなたと同じ船には乗らない
青い蝶が舞う。
大人の手の平ほどある大きな蝶で、羽のスソはリボンのようにひらりと長い。
透き通った青い羽でゆったりと飛ぶ、こんな特徴的な蝶は他で見ることはない。
間違いない、ここはラクスアグリ島だ。
そう思ったと同時、これは夢だとも思った。
ソーマは夢の中であの島の砂浜にいた。
海を見れば遠くでは異常気象の黒い壁が見える。時折光が走っているあれは稲妻だ。
「今の周期じゃ、この島から出ることはできないわね」
懐かしい女性の声。
彼女の声は心を大きく動かす。
そんな彼女との関係はなんと言ったらいいのだろうか。
ソーマはその声を辿るように振り返った。
島の中心を背中にした、背の高い女性がひとり立っていた。
小麦色の金髪。琥珀色の煌めく瞳。
絵画に描かれるような綺麗な女性だ。
「…あなたがいるということは、俺はもう死んだのかな。ミュウ」
たった三日間の出逢いだった彼女から、生涯の宝物を受け取った。
ティヤはやたらミュウとソーマを恋仲だった、ということにしたがっていたが、そういう想いではない。
でも心から感謝している相手ではあった。
もしかしたらミュウも同じなのかもしれない。
相手に向ける感情がよく似ているからか、二人の間の空気は旧友のように馴染んでいた。
ミュウは困ったように微笑した。
「いいえ。死んでいないわ。まだね。
というかきっと、死にきれないんじゃないかしら」
「どういう意味だ?」
首を傾げるソーマに、ミュウは悪戯に背を向けて答えず逆に尋ねた。
「私の子供たちはやんちゃだったかしら?」
「ああ。猿だよ」
「ストレートねー。じゃあ孫たちは?」
「ティヤほどじゃないが…。…コアたちやエレナの話を聞くとまぁまぁやんちゃか。
サラは行動力はあるんだが背伸びしがちでちょっと心配だし。
ルカとは赤ん坊以来だな。でも夢中になると周りが見えなくなるタイプだ。そのせいで泥蛇に捕まって…。
ちょっと待て。まさかサラとルカになにかあったのか?」
ソーマはぎょっと目を見開く。
思わずミュウに近づこうとした彼の足を止めるように、ミュウは長い髪を揺らしてまたソーマに振り返った。
「…あなたはその船にまだ乗れる。
だから見に行ってあげて」
その船、と言った彼女の視線を追いかけると、ソーマの視線は海に戻った。
海辺に漂うそこには粗末な筏が一隻あった。
ソーマは足首を海に浸からせながら筏まで近寄った。
筏の船首に触れ、もう一度ミュウを振り返る。
「あなたは?」
「私は違う船よ」
「そうか。…ミュウ」
「なに?」
「そんな申し訳なさそうな顔、しなくていい」
ソーマは筏に乗りながら言った。
するとボロボロの板の上に筏の中に小さな笹船を見つけた。
不思議と、それがイングだと分かる。
「船の中に船…マトリョーシカか…」
笹船をそっと手に取って、ソーマは笑った。
そして、…やはり罪悪感を背負っているミュウに心からの感謝を伝えた。
「あなたはきっと、俺に背負わせたと思っているんだろう。
でも違うよ。
俺があの子たちと居たかったんだ。
何度も迷ってばかりの俺が、あの子たちのことだけは迷わなかった。
どんな風に出逢ったって、俺にとってあの子たちは宝物になったはずだ」
全ての持ち物が自分のものではなかった、沈没都市の住民だった頃の自分を思い出す。
ただただ何をしても空虚で惨めだった。
恵まれているのに守りたいと思えるものがなかったから、そんな自分のことが本当に嫌だった。
でも見つけた。
黄金の宝箱より大切な価値を。
蓋が開いたって今の自分は見もしないだろう。
「ありがとう。ミュウ。
…なのにごめん。
ティヤとスラを守り切れなくて」
彼女には心からの感謝と…尽きることのない罪悪感があった。
謝ったところでなにも満たされないけれど、この記憶と夢が曖昧に溶け合っている場所なら、吐露することで少しだけ身体が軽く感じる。
長いまつげを伏せて視線を下げていると筏が動いた。
どうやら時間らしい。
そんな彼を見送るようなタイミングで、ミュウは言った。
「私はここであなた〝たち〟が来るのをのんびり待ってる」
視線を上げると、彼女は泣きそうな瞳で切なく微笑していた。
不思議なことを言う彼女にソーマは首を傾げる。
気が付けば彼女の姿が見えなくなるほど遠くなり、灰色がかかった霧があたりを隠してしまった。
深い沖に出て行きながらソーマはふと思った。
(ティヤとスラにも逢いたかったけど、こんな時ってミュウと一緒にいるわけじゃないんだな)
寂しさと疑問が胸の中に残る。
揺れる筏に落とされないよう、色あせた船首に手を添えながら座った。
少し手に力が入ったら壊れてしまいそうな脆い笹船を大切に抱えて。
「…俺の身体にはミュウが手当するために使った金糸が残されていた。
でもきっと、それが解かれつつあるから俺にはもう、さほど時間が残されていないんだろう。
急いで戻らないと」
なんとなく、自分の身体になにが起きているか理解していた。
もともとラクスアグリ島で撃たれた傷は致命傷なほど深く多かった。
そんな傷は塞がり、その影響で老いまで止まるなんて都合が良すぎる。
だから恐怖や驚きはない。
海底施設での戦闘がなくとも恐らく、時が来れば解かれる繋ぎだったと納得している。
筏が進むたび、身体が重く感じた。
現実が近づいている。
重さが鮮明になり感覚が遠くなってきた。
(…あなた……〝たち〟?)
ミュウの発言のなにを不思議に思ったのか。
そうだ。そんな言い方に気を止めたのだ。
だが暗い霧に全てが覆われてしまえば、夢ごと忘れてしまった。
―---------――
「助けてー‼」
「止まれ!」
「逃げろ‼」
破壊音と悲鳴と簡単な言葉が耳障りだった。
海岸ポイントはもはや突破されたも同然の状態となった。
薄暗い雲に空が覆われた地上は暗く、血と土の区別ができない惨状と化した。
土と潮風、アスタロトの粘膜などに汚れながら、マナはアスタロトの死骸の裏に隠れて息を整える。
微かに顔を出して海側を見た。
内陸政府の艦隊は全滅だ。ある意味内陸政府によるこちらへの脅威が減ったことになるが、金属を食べたアスタロトは最も破壊力のある攻撃である衝撃波を出し始めていた。
まだ海にいるアスタロトだけができる攻撃手段のようだが、あれらが内陸に上がってくれば――。
(…あの攻撃は金属や燃料を食べることでできたのか。最初からできると思って警戒して損した。…いやそれより、人の声を真似る方が厄介だ)
アスタロトの衝撃波は仲間に当たりやすいからか、海にいるアスタロトは〝今は〟内陸にそれを向けてはこない。
ここの地上部隊の壊滅の原因はアスタロトの声真似だ。
仲間とよく似た声のせいで強かった連携を一気に乱れさせた。
ここを突破したアスタロトが中間ポイントに到達する前に声真似ができることを知らせたかったが、こんな混乱の激しい現場で誰が〝ジャルヘッド〟を持っているか分からなくなっていた。
マナは額の汗をぬぐい、乾いた喉で息を吸う。
(全然間に合わないだろうけど、走ってコアたちに私が知らせに行く?
…いやだったらまだ〝ジャルヘッド〟を持っている人を探した方がいいか)
マナは手持ちに残された武器を確認していく。
雹嵐砲、カーアームズK9、ガーバーナイフ。
雹嵐砲は標的が水分を持っていれば凍結させることができる。精密兵器のボディの液体を参考にして作られたカートリッジであるため、銃本体の摩耗がなければ半永久的に使える。
…はずだったが、想定を遥かに超える激戦になってしまい、銃本体の耐久力が落ちている。汚れや破片の衝突でかなり傷ついていた。
現状を打破する方法を考えて、ひとつ、行きつく。
(…なんとなくわかるよ。
だって燃料は溜まっているものね。
…でも〝これ〟は私たちの味方だろうか)
こんな敗北の只中となっても、この選択に躊躇できるのはある意味冷静だ。
ギフトは本来、使わないことが正解だから。
〝今だけでも〟という使い方は結局、〝いつか失敗する〟。
マナが、そしてマナ〝たち〟が守りたいものは〝今だけ〟ではない。
だから悩んだ。
周囲で人が死んでも。自分が死にそうになっても。
本当に守りたいものを見失ってしまわないか。
死ぬほど悩んでいたマナは――静かに顔を上げた。
「…用があるなら明日でもいいかな」
マナの声が聞こえる所で立ち止まったその人は、マナの少し素っ気ない言い方を面白がった。
「お前があたしにつれないのは珍しいな。…あぁ、本当に新鮮な気持ちだよ」
青みがかかった銀髪が戦場の風に揺らされる。
雫色の瞳は鏡のようにマナを映す。
…それ以外が見えていないみたいに。
ニーナはマナの雹嵐砲を見て感心した。
「なるほど。凍らせて対処するとは面白い。
キヴォトスじゃなければ撃ったり斬ったりは効かないからな。アスタロトには」
しゃがんでいたマナはゆっくりと立ち上がり、雹嵐砲を構えながらニーナの手元を見た。
キヴォトスが装着されている。目元に皺を刻んだ。
(〝ソルジャー〟が搭載されているならもうあれはニーナしか使えない。
〝カーボナイト〟や〝エスタ〟があるから守備も備わっている。
あとは…〝ブースト〟か。
…今の私じゃ勝てない)
足止めもできない戦力差に苦い顔をしていると、ニーナはくすりと小さく微笑んだ。
あまり見たことのない表情だ。
話をする気はあるように感じて、マナから切り出した。
「まだ、ニーナは泥蛇のために動くつもり?」
「あたしの役割は泥蛇の手足だと思っているからな」
以上でも以下でもない、ニーナなりの正直な答えだ。
依然、周囲の破壊音は台風の目のように二人を避けている。
〝ラダル〟でこちらに向く脅威がないことを確認して、――マナは雹嵐砲を下げた。
「…ニーナは、私のことをどう思ってる?
私はニーナと同じ泥蛇の兵士だったもの。
あなたと同じように…、
泥蛇から与えられた役割のために、ここで死んだ方がいいと思っている?」
この問いにあまり感情は含まれていなかった。
マナはただ、純粋に疑問だった。
もしニーナが他の泥蛇の兵士と同じ、与えられた使命に忠実ならばなぜ。
七草学園でマナを見逃し、海底施設で言葉を交わし、そしてここまで直接逢いにくるのか。
マナにとってニーナは恋情に近いくらい、必要な存在だった。
彼女の存在が二度と塞がることのない穴に蓋をして、ずっとそのままでいてくれた。
ではニーナにとってマナとは?
人間らしくて人間らしくない彼女の底に、マナは投げかけた。
すると、ニーナは今まで見たことないくらい嬉しそうな満面な笑みを浮かべた。
「なにもない方が幸せなお前とあたしはよく似ていると思ったよ。
でもお前はあたしじゃ選べない針路を選ぶ。
似ているからこそ、お前があたしとは違うものを選ぶことには価値がある。
だからあたしと違うところが増えるたび、見ていてとても楽しかった。
七草学園で防犯カメラを潰しただろ?陰ながら応援したよ。
〝笛持ち〟のために〝シメイラ〟と戦った時は直接見てやりたかったな。
あぁそうそう。海底施設の時はそれこそお前と殺し合って、負けるならあそこで死んでも良かったんだ。
どう思っている、か。難しいな…。
全部言葉になんてできない」
楽しくて。嬉しくて。
気持ちが言葉に乗っていることが分かる。
これが彼女の本音ならば、彼女はまるで泥蛇の兵士らしくない。
マナが〝フラム〟を持つ限り、泥蛇にとってマナはいつか絶対に切り捨てる存在だ。
それは周知されていたことだから、海底施設での戦闘でマナは敵だと泥蛇の兵士はみんな冷徹に割り切った。
それが。
部隊のリーダーのひとりであり、泥蛇の忠実な手足であるニーナはそうではなかった。
マナの裏切りに喜び、応援し、見届けたいと言う。
「あたしはね、マナ。
お前に対してだけは死んでもいいなんて思ったことがないんだ。
泥蛇がお前を無価値だと評価しても。
Fageでお前がどれだけ無力でも。
たとえさいごに残るものがなにもなくても。
…あたしは自分が一体どんな存在なのか答えを出している。
でもあたしが答えるだけじゃなんの意味も持たない。
無価値なままの答えに価値を与えるとしたらお前がさいごに選ぶ選択にある。
あたしはお前を見つけた。
これ以外のあたしの幸福はこの世にはないよ」
〝愛している〟よりも重く、裂けるほど冷たく、欲張りな想いだろう。
マナは胸に刺さる棘を感じた。
マナだからニーナの本心が伝わる。彼女がマナに求めているものが。
二人を避ける台風の目が動き出す。
もう悠長に話している時間は残されていない。
現実の焦りと悲痛が、マナの冷静さを揺るがす。
「たくさん…たくさん見てきたよ。
人が人でいる価値を与える言葉も、想いも。
なのにどうして…
どうしてニーナにとってそれが…
〝自分を否定して欲しい〟ことなの」
以前のマナであったらニーナの本心を聞いてもこんな痛みを感じることはなかった。
でも今のマナはニーナの本心がどれだけ虚しいものであるか知っている。
マナの表情を見て、ニーナは初めてほんの少しだけ申し訳なさそうな顔になった。
しかしそれは一瞬で、やはり幸福に満ちた――そして全身全霊の闘気を込めた笑みを浮かべた。
ゆったりと手を口元に持ち上げ、愛しい人に口づける代わりにキヴォトスに唇を落とした。
「キヴォトス、〝起動〟」
交錯する愛情はさいごまですれ違う。
どんな言葉なら届いた?
どんな行動を示したら良かった?
どれだけ繰り返したら変われた?
ニーナの手元が銀の光の糸で溢れるところを見ながら、マナは心の中で反芻した。
だが骨身に刻まれた経験が、反芻する後悔と理性を切り替えさせる。
アスタロトの脅威が迫っている。
ニーナの手に〝ブリッツ〟が編まれる。
持てるものを全て使って戦わなくてはならない。
マナは一度目を閉じ、はー、と長く息を吐きだした。
身体の中に溜まった燃料に火を点け、より強く燃やす宣誓を届かせる。
(なんのために戦うのか。見失わないためには私は人間性を失ってはならない。
――…私は、〝私〟のままニーナと戦う)
マナの足元から青い蛍の光が遊ぶように浮く。
風に乗って広がる光が薄暗い地表を照らす。
愛しい強敵の本気に、ニーナは嬉しそうだ。
怪物たちはどうせできないと高をくくっていた。
それがひっくり返される。
マナは瞼を上げる。
その瞳はいつもの茶色の瞳ではなく、鉱石のような銀の瞳に変わっていた。
迷いのない敵意をニーナにぶつけ、誓いのように告げた。
「〝フラム〟、起動」
―---------―---――
アスタロトが起こす波に影響を受け、異常気象があちこちに発生する。
気まぐれな酸の渦、海を巻き込んだ竜巻、空から落ちる雷雲、熱波の溜まり場…。
アスタロトはまるでそれらを利用するように海で泳ぎ、内陸政府の船や戦艦を次々と沈めていく。
ナグルファルとなる沈没都市は異常気象に干渉する信号波を当てて軌道を逸らし、安全を確保しながら各地の沈没都市との合流を続けている。
この地上や海上に静かな場所なんてないんじゃないかというほど、あちらこちらが叫んでいた。
けれど絵画に描かれるような女性の姿をしている怪物は、そんな叫びより気になる気配があった。
雲より高い位置に金糸を張って座っていた〝ヴィアンゲルド〟は立ち上がる。
穴が空いてしまいそうなほど強く打ち付ける雨も、あらゆるものをぐちゃぐちゃに掻き混ぜる暴風も気にせず、ある方向を見つめた。
感情の無い表情だが、内情を説明するならばそれは〝険しい〟だろう。
そんな内情を逆撫でするように泥蛇の呆れた笑い声が〝聴こえた〟。
〈あ~あ。起きちゃったね。ね?だから言ったでしょ?君を〝ちょっと〟残して置いた方がいいって。〉
泥蛇はすでにナグルファルの一番低い船室にいる。
こちらのことはエンドレスシーを介して観察していた。
地上に関して直接干渉ができない泥蛇の皮肉に、〝ヴィアンゲルド〟はわかりやすく反応した。
「…あってはならない事態だ。」
〈まぁ人間性を残している状態ならニーナが勝ってくれれば問題はないんだけれど。
マナが勝ったらお願いね。〉
「分かっている。」
女性の声だが低く、静かな怒気が込められた。
泥蛇の通信が切れると、〝ヴィアンゲルド〟は長い小麦色の髪を強風になびかせながら地上を見下ろした。
「我々がどうあるべき存在か、ギフトである〝お前〟も分かっているだろう。
我々は〝救済〟になってはいけない。
今までの全てを無駄に終わらせるつもりか。
誰もお前の真価を分からずに進めばーー、
臨界点の航海を完全に外れることになる。」




