39. 従者の覚悟
皇帝の執務室へと続く瀟洒な廊下を歩きながら、アルトランテは昔の記憶を思い浮かべていた。
(あれは確か、リン様が六歳になる少し前だったか)
当時のアルトランテは十歳。俄かには信じがたい前世の話を打ち明けられたリンティアナ六歳の誕生日、その数日前のことだ。
何度死にかけても休むことなく厳しい鍛錬を続けるリンティアナに、何故そうまでして幸せな結婚とやらをしたいのか、聞いてみた。誰とどうなろうとも、最期の瞬間はどうせ独りなのに、と。
およそ子供とは思えぬ大人びた顔で笑って、リンティアナは言った。
「だからよ。みんな最期は一人だからこそ、大事に抱えていける想い出が必要なの」
穏やかな夏の夕暮れの風に、飾り気なく束ねただけの黒髪が揺れていた。
「誰かを愛して、誰かに愛された記憶が、きっと最期の私を救ってくれる」
笑いながらそう言って、鍛錬に戻る小さな背中。自分よりもずっと小さなはずのその背を、アルトランテは何も言えずにただ見つめた。
死はただ弱さの終着点、負けた証なのだと思い込んでいた幼いアルトランテにとって、死はそれまでに得たものを抱えていける『最期の救いの場』なのだと捉えるリンティアナの言は、死生観を根底から覆されるほどに衝撃的だった。
(……どうして、そんなことが言えるんだろう)
アルトランテは心の底から不思議に思った。
リンティアナは大国の皇女で、皇帝をはじめ皆が溺愛する存在だ。自ら行っている過酷な鍛錬を除けば、あらゆる世の理不尽や苦難とは無縁のように思える。
実の親に捨てられたアルトランテとは違い、身を切るような孤独も惨めさも、きっと感じたことなど無いだろう。そう思っていたのに。
(でも、あれは……知っているから言えることだ)
愛し愛されたいと渇望するのは、そうではなかった時間があるからだ。その辛さを知っているからだ。
いつのことだかはわからない。リンティアナは産まれた時から大切にされてきたはずだ。けれどそれでも、アルトランテはようやく、リンティアナにはリンティアナの痛みがあるのだと気が付いた。
そして同時に、己の狭量さを恥じた。苦労知らずのお姫様だと決めつけて、自分の方が可哀想だと思い込んで。なんと傲慢なことか。
目の前のリンティアナは、いつだってずっと必死だった。小さな体を傷だらけにして、涙を流しながら何度も立ち上がって。こうしている今もずっと、必死に何かに抗っている。
(すごいな……本当に、すごい)
ダンテの子として拾われたときから、いや、それよりももっと前から、ずっと心を覆っていた重く分厚い何かが弾け飛んだような気がした。それはもう鮮やかに、戻りようもないほど粉々に。
鮮やかな夕焼けに照らされる小さな背に、これまで感じたことのない疼きを載せて心臓が跳ねた。
どくん、どくんと脈打つそれは、痛いようで、くすぐったいようで、全く未知の感覚だった。この気持ちを何と表現すれば良いのか、当時のアルトランテにはさっぱりわからなかった。
ただ一つだけ。もしも自分こそが、最後の最期の瞬間に、この人を救う想い出になれたなら。そして自分自身の終わりにも、この人との大切な記憶を連れて行けるのなら。それはどんなに幸せな事だろうと思った。
そうして数日後。謎に沸き立つ心を抱えたまま迎えた、リンティアナの六歳の誕生日。二人きりの夜の寝室で、大号泣しながら前世の記憶があるのだと打ち明けられた。
信じ難い話ではあったが、心のどこかで「ああ、だからか」と納得もした。
リンティアナの年に似合わぬ大人びた物言いも、必死に抗い続ける理由も。感じてきたであろう強い孤独も、悲しく惨めな生の終わりも。
しゃくりあげ、小さな肩を震わせて大粒の涙を零す姿に、胸が締め付けられるような心地がした。夢の中のクズ男どもを殺してくると真面目に宣言すれば、リンティアナは濡れた睫毛をはためかせて笑った。
(……ああ、そうか。これが恋か)
ふと、理解した。
窓から忍び込む月明かりに照らされて、リンティアナの丸い頬を縁取る柔らかな産毛が、淡く金色に輝いていた。なんて綺麗なんだろうと思った。
他の誰でもない自分の手で、この方を守りたい。いや、守らなければ。
強くそう思ったことを、まるで昨日のことのように鮮やかに思い出せる。
「……そのためにも、だな」
フッと一つ息を吐き、気合を入れて皇帝執務室の扉の前に立つ。
扉の隙間からこれでもかと漏れ出ている『威圧』を正面から受け止めて、アルトランテはゆっくりとノックした。




