33. 主の怒り
「おい、どういうことだ!?」
潜められた、けれど明確な怒りと焦りを載せた声が暗がりに響く。
辺境伯邸の裏手へと繋がる狭い通路は、常ならば下働きの者たちだけが使うものだ。ひやりとした石造りの壁に粗末な蝋燭の灯りがぽつぽつと灯り、掃除が行き届いていないせいか埃が溜まっている。
「お、俺だってわからない!」
狼狽えた声で言い返すのは、まだ年若い辺境伯であり、この邸宅の主でもあるヴィド・モントシュタインだ。
石壁を背に大柄の男三人に囲まれ、光沢のあるシャツのボタンが今にも弾け飛びそうなほどに胸ぐらを掴まれて、焦りと恐怖で冷や汗を流している。一番のウリであろう美貌も形無しといった様相だ。
「辺境伯さんよ、アンタ俺達を裏切ったんじゃないだろうなぁ?」
「そんなことしたら『あのお方』が黙っちゃいないぜ?」
「ち、違う! 本当に俺は何も知らないんだ……!」
辺境伯を問い詰める自称傭兵たちの言動は、完全に輩のそれだ。胸ぐらを掴んでいた手を何とか引きはがし、辺境伯は喉元を擦りながら言った。
「とにかく、お前たちは裏山にいる奴らに身を隠すよう伝えてくれ。今すぐだ。まともにやりあっても勝ち目はない」
大柄な男のうちの一人が、まだ腑に落ちない顔をしながらも足早に裏口へと向かった。
「くそっ、何でこんなことに……あのお方に協力を仰ぐしか……」
辺境伯は苛立ちを露わに、ブツブツと呟きながら爪を噛んだ。神経質そうなその仕草をうんざりした顔で眺めながら、自称傭兵の一人が溜息を吐いて言う。
「しっかし、こんな辺鄙なところまで王の野郎が来るなんてなぁ。アンタが姫さんと婚約なんかしたからじゃねぇのか?」
「あの方の命に従っただけだ!」
辺境伯は眉を吊り上げ、吐き捨てるように言った。
「俺は婚約なんか最初から嫌だったんだ! 何が王女だ。美しくも賢くもなく、何の取り得もないくせに……そもそも魔物を狩るしか能のない野蛮な血筋の女なんだぞ!? 命令じゃなければ関わるのも御免だ!!」
何かが逆鱗に触れたのか、咳を切ったように溢れ出る罵詈雑言。聞くに堪えないそれらを遮るように、パチン、と扇子を閉じる音が暗がりに響いた。
決して大きな音ではない。
ただ扇子を閉じただけの、けれど持ち主の意思を表すには十分すぎるほどに、確かな怒りを載せた音だった。
「だ、誰だ!?」
狼狽える自称傭兵たちと辺境伯の目の前で、まるで闇から溶け出るようにリンティアナが姿を現した。姿と気配を完全に断つ、得意の隠ぺい魔法だ。
次いで青い顔をしたイヴォナが闇の中からおずおずと現れ、ショックを隠し切れない表情で辺境伯を見上げた。ようやく事態を理解したのか、辺境伯が大きく息を呑む。
「……っ、お、王女! 今のは、ハハッ、違うんです。何というか言葉の綾で、決して本心では……」
「黙りなさい」
冷ややかに呟くと同時に、リンティアナは薄っすらと発光する光の輪で辺境伯たちを拘束した。身動きが取れずにわたわたと焦る三人の男を尻目に、リンティアナはイヴォナへ向き直った。
「イヴォナ、私を見て」
血の気を失ったイヴォナの両頬を掌で包み、正面から瞳を見据える。
(気配を断って証拠を押さえに来たのは正解だったけど……辺境伯が思った以上にクズだったわね。今一番大事なのはイヴォナの心のケアだわ。あいつらの始末なんか、いつでも出来るもの)
潤んで歪み、悲しみと戸惑いを色濃く映し出すイヴォナの紺色の瞳。冷えた肌は青白く、呼吸も浅い。千々に乱れた彼女の心を表すかのようで、リンティアナの胸も痛んだ。
「いい? あなたのことを大事にしない奴の言葉を真に受ける必要はないの。どうでもいい奴の言葉なんて、どうでもいいのよ。あなたを大事に思う人、あなたが大事にしたいと思う人の言葉を信じなさい」
穏やかな、けれど凛とした声でそう告げながら、リンティアナはイヴォナの頬を優しく撫でた。
「ねぇ、イヴォナ。あなたは民を第一に想う誉れ高きクナハ王の子。強く美しく誠実で、誰かのために戦える優しい心を持っているわ。あんなつまらない男の薄っぺらい言葉で、あなたに付く傷など一つもないの」
「リンティアナ……」
イヴォナが瞬くたびに、大粒の涙がリンティアナの指を暖かく湿らせてゆく。
「あれと私、どっちを信じる?」
お行儀悪く辺境伯を顎で指し、リンティアナは促すように微笑んだ。イヴォナの答えを確信しているからこその問いだ。
震える息をグッと飲み込んで、涙を煌めかせながらイヴォナが笑う。
「それは勿論、リンティアナね」
「でしょう?」
「ふふっ、うん……そうね。本当にその通りだわ」
はぁ、と一つ大きく息を吐き、愛らしい笑顔を見せるイヴォナ。何かを吹っ切ることが出来たような、何とも清々しい笑顔だ。
(ひとまず大丈夫そうね。よし、じゃあ……)
まだ光の拘束と格闘している辺境伯たちを振り返り、リンティアナはにっこりと微笑んで言った。
「モントシュタイン卿。イヴォナとあなたの婚約は、白紙に戻るでしょう」
「……はっ?」
何を言われたのかわからない。そう言いたげに固まる辺境伯が、数秒の間を置いて盛大に狼狽えだした。
「こっ、この婚姻は王も認めているのですよ!? そんな勝手なことが……!」
「許されるのよ。私を誰だと思っているの?」
辺境伯の言葉を遮るとともに、リンティアナの威圧が発動した。
この世界で言う『威圧』とは、単に態度の話ではない。己の持つ魔力の片鱗を身に纏い、圧倒的な魔力量の差を肌で感じさせる文字通りの制圧行為だ。
「うあ……っ!」
辺境伯たちはその場に膝を折り、息苦しそうに顔を歪めた。
分厚く重たい雪に覆われ、体の芯まで凍り付きそうな寒気。あるいは薄皮一枚隔てたすぐそこに、骨まで焼き尽くす溶岩が流れているかのような恐怖。
それは、圧倒的上位の生き物に対する本能的な恐怖と酷似していた。自然と身が震え、呼吸が浅くなり、血の気を失っていく。
(……へぇ、意外と頑張るじゃない?)
息苦しそうに胸を上下させ、荒い呼吸を繰り返す辺境伯を見て、リンティアナは少し意外に思った。
だいぶ威力を抑えているとはいえ、魔法帝であるリンティアナの威圧は災害と呼んでも良いレベルの代物だ。常人ならばとっくに地に伏して気を失っているところだが、膝をつきながらも意識を保っているのは辺境伯としての矜持ゆえだろうか。
「……っらぁ!」
バチン、と派手な音が響いた。自称傭兵の一人が拘束を無理やり解いたようだ。
(さっきから何かブツブツ呟いてるなと思ってたけど、解除魔法だったのね)
魔法の解除はそれなりに難しい。この世界で一番強力な威圧を食らっても動ける点も加味すると、やはり単なる傭兵ではないのだろう。
「……へっ、仕方ねぇ。皇女サマにもここで不運な事故に遭ってもらいましょうか」
「ハハッ、殺す前に一発お相手願いたいねえ!」
拘束を解いたことで余裕を取り戻したのか、まだ青い顔をしながらも下卑た笑いを零す自称傭兵たち。
「おっと、抵抗はしない方が身のためですぜ?」
攻撃魔法も扱えるのだろう、一人がニヤニヤと笑いながら懐から出した小型の杖を構えて見せる。リンティアナとの圧倒的力量差を理解できていないのか、それとも虚勢か。どちらにせよ醜い害意があることだけは確かだ。
リンティアナは盛大に溜息を吐いて言った。
「抵抗ですって? この私が?」
笑っちゃうわね。
そう言いたげに、にんまりと唇が弧を描く。どこか底冷えのするその笑顔に、自称傭兵たちの背をゾオッと駆け登る悪寒。
「アル」
一歩も動かず、ただ小さく一声呼んだだけだった。
ぬるりと闇から飛び出たアルトランテが、瞬きのうちに自称傭兵たちをその場に蹴り転がした。




