第八章 最高神官
聖堂にもう一度行きたいと凪沙が言い出したのはルクセリアに来て十日が経った頃だった。
初めて来た夜のことは今でもよく覚えている。
素足で石畳の上に立って、ティアの光を見て、ノクスと目が合った夜。
あれから毎日のように王宮の中で過ごしていたけれど、もう一度あの場所に行きたいという気持ちがずっとあった。
ノクスに伝えると少し考えてから頷いた。
「カインを連れて行ってくれ。俺は午後から公務が入っている」
「一人じゃだめ?」
「だめだ」
即答だった。
凪沙が少し口を尖らせると、ノクスは視線を逸らしたまま続けた。
「聖堂には神官が大勢いる。凪沙のことをまだ知らない者もいるから何かあってからでは遅い」
「……分かった」
カインと二人で王宮を出た。
青空の下、白い石畳の大通りを歩いて聖堂の尖塔が見えてきた頃、カインがぽつりと言った。
「殿下は心配性なんじゃなくて、慎重なんです」
「分かってます」
「……分かっているなら、あまり困らせないでください」
言い方はぶっきらぼうだったけれど、ノクスを思いやっているのが伝わってきた。
凪沙は、その言葉の温かさを受け取るように「はい」と答えた。
✦ ✦ ✦
昼間の聖堂は、夜とはまったく違う場所のようだった。
高い天井の窓から光が差し込んでいて、石畳の上に白い格子模様を作っていた。
参拝者が何人かいて、静かに祈りを捧げていた。
神官たちが奥へと続く廊下を行き来していた。
凪沙はゆっくりと中へ進んだ。
最奥に近づくにつれて、空気が変わっていった。
少しずつ静かになって、少しずつ冷たくなって。
そしてティアが見えてきた。
昼間のティアは、夜とは違って見えた。
内部の蒼白い光が昼の光の中でも確かに揺れている。
でもノアの言葉を聞いてから見ると、その光が思ったより頼りなく感じた。
千年前から一度も消えたことがないと言われているのに。
それでも確かに、弱まっているのが分かった。
ティアの近くだからなのか手の中の鏡が少し温かくなった。
ノアが鏡はティアを感知すると言っていた。
それが今、はっきりと分かった。
しばらくティアを見ていると背後から足音が聞こえてきた。
カインではなく、もっとゆっくりとした重みのある足音だった。
「珍しい方がいらっしゃる」
知らない低い声だったので凪沙は振り返った。
そこに立っていたのは白い長衣を纏った老人だった。
六十代くらいだろうか。
銀色の髪を後ろに撫でつけて、深い皺の刻まれた顔に穏やかな笑みを浮かべていた。
でもその笑みの奥にある目は笑っていなかった。
「ヴィクターと申します。この聖堂を管理しております」
最高神官と凪沙はノクスからその名前を事前に聞いていた。
ティアの異変を知りながら隠している人物と。
「牧浦凪沙です」
「存じております。王子殿下の客人でいらっしゃると伺っています」
ヴィクターは凪沙の隣まで来てティアを見た。
穏やかな顔のまま静かにティアを見ていた。
「美しいでしょう」
「……はい」
「千年以上、この光は消えたことがない。女神様のご加護がある限り、これからも消えることはないでしょう」
凪沙は黙っていた。
今この瞬間も光が弱まっていることをノアの研究で数値として知っているのに、ヴィクターはそれを知らないふりをしている。
いや、知っていて言っているのだろうと思った。
ヴィクターが凪沙を見た。
穏やかな目のままだった。
「その鏡、拝見してもよろしいですか」
凪沙は少し間を置いてから、首を振った。
「すみません。あまり人に触らせたくなくて」
「そうですか。失礼しました」
ヴィクターは笑ったまま引いた。
責める様子はなく、でも目がほんの一瞬だけ鏡に固定されたのを凪沙は見逃さなかった。
「また聖堂においでください。いつでも歓迎します」
そう言って、ヴィクターは奥の廊下へと消えていった。
足音は来た時と同じように、ゆっくりとして重かった。
凪沙はしばらく、その後ろ姿が見えなくなった廊下を見ていた。
……何かある。
うまく言えなかった。
でも確かに、何かがあった。
穏やかな笑顔の奥に、凪沙には読み取れない何かが。
背後からカインが近づいてきた。
いつから見ていたのか、ヴィクターが去った方向を見ていた。
「鏡を渡さなかったのは正解です」
それだけで、何も付け加えなかった。
✦ ✦ ✦
王宮に戻ると、ノクスが廊下で待っていた。
公務が終わったのか少し疲れた顔をしていたけれど、凪沙の顔を見て「どうだった」と聞いた。
「ヴィクターという人に会いました」
ノクスの顔が、すっと固くなった。
「何を言われた」
「ティアは女神のご加護で消えないって。鏡を見せてほしいとも言われたけど、断った」
「……よかった」
ノクスは小さく息をついた。
それからカインを見て、目だけで何かを伝えた。
カインが小さく頷く、その様子は二人の間にある言葉を使わないやり取りだった。
「ノクス」
凪沙は真っすぐに聞いた。
「ヴィクターさんは危ない人?ノクスにとっては敵になる?」
ノクスはしばらく黙っていた。
窓の外、夕暮れが王都を橙色に染め始めていた。
「……分からない」
やがて、正直に言った。
「敵とも言い切れない。でも味方とも言えない。ティアのことを知っていながら隠している。それだけは確かだ」
「どうして隠すんだろう」
「それが分かれば、もう少し楽になれる」
ノクスは窓の外を見ていた。
沈んでいく夕日が、彼の銀髪を橙色に染めていた。
その横顔には、答えの出ない問いを抱えた人の静かな疲れがあった。
凪沙は何も言わず、た、隣に立っていた。
それで少し、ノクスの肩が下がった気がした。




