第七章 涙晶の研究者
ノア・フェルディアという名前を最初に聞いたのはジブリールからだった。
「ティアの研究をしている方なんですよ。殿下と同い年で、すごく頭がいいんですけど、ちょっと変わってて」
「変わってる?」
「興味のあることとないことの差が激しいというか。気になるものを見つけると周りが見えなくなる感じです。でも悪い人じゃないですよ」
そのノアが凪沙に会いに来たのはルクセリアに来て一週間が経った頃だった。
その日の午後、凪沙が中庭の石のベンチに座って鏡を眺めていると廊下の方から足音が聞こえてきた。
ノクスでもカインでもない、少し軽い足音だった。
現れたのは、凪沙と同じくらいの年頃の青年だった。
柔らかそうな茶色の髪に、丸みのある眼鏡。
薄い色の瞳が、まっすぐ凪沙の手元の鏡に向いていた。
「あなたが凪沙さんですか」
声は穏やかだった。
でも凪沙を見るより先に鏡を見ていたので凪沙は少し笑いそうになった。
「はい、そうです」
「ノア・フェルディアといいます。ティアの研究をしています」
彼はそこで初めて凪沙の顔を見で、少し照れたように頭を下げた。
「最初に鏡を見てしまってすみません。ずっと気になっていて」
「正直な人なんですね」
「……そうですか?」
ノアは少し首を傾けた。
自覚がないらしかった。
凪沙は鏡を少し持ち上げて見せるように差し出した。
「触らなくていいので、近くで見ますか?」
ノアの目が輝いた。
その目は子どもみたいな輝き方だった。
✦ ✦ ✦
ノアは鏡のそばに腰を下ろして、しばらく黙って見ていた。
触れはしない。
ただじっと、銀細工の蓋を、涙型の紋章を、鏡面の表面を、まるで本の文字を読むみたいに丁寧に見ていた。
凪沙はその隣で少し待った。
急かす気にはなれなかった。
やがてノアが口を開いた。
「この紋章、ティアと同じ形ですね」
「気づいてたんですね」
「最初に見た時から。涙滴型の意匠は王国にも多いですが、この比率は特別です。ティアの形そのものを模している。偶然じゃない」
ノアは少し考えるような間を置いてから続けた。
「《ルミナの鏡》は、ティアと対になる聖遺物だと王家の記録に残っています。ティアが女神の涙なら鏡は女神の想い。二つは別々に存在しているようで、根っこでは繋がっているんじゃないかと私はずっと思っていて」
「繋がっている、というのは?」
「ティアが弱まると同時に鏡が動き出した。あなたがここへ来たのも、その流れの中にある気がします」
凪沙は鏡を見た。
銀色の蓋が、午後の光の中で静かに輝いていた。
「ティアが弱まったから、私がルクセリアに来た……ということですか」
「逆かもしれません。鏡があなたを選んだからティアが反応した。どちらが先かは分からないけれど」
ノアは眼鏡を少し押し上げて、凪沙を見た。
「一つ聞いていいですか」
「はい」
「鏡を持っていると何か感じますか。温度とか、光とか」
凪沙は少し考えた。
「温かいことがある。ティアの近くにいる時と、ノクスの……殿下の近くにいる時」
ノアはその答えを聞いて手元の手帳に何かを書き込んだ。
素早い字だった。
「やっぱり魂の共鳴に反応しているんだと思います。鏡は相性の良い魂を感知する。ティアと鏡は同じ女神から生まれたものだから、互いを認識できる。そして人の魂も――」
ノアはそこで少し言葉を止めた。
何かを言いかけて、やめた。
「続きが気になります」
「……いえ、まだ仮説の段階なので。確かめてから話します」
真面目な顔だった。凪沙は少し笑った。
「分かりました。また教えてください」
「はい。あと……また鏡を見せてもらえますか。定期的に」
「構いません」
ノアはほっとしたような顔をして、また手帳に目を落とした。
✦ ✦ ✦
夕方、ノクスが中庭に来た時、ノアはまだそこにいた。
手帳を開いたまま、何かを考え込んでいた。
ノクスはノアを見て、近くいた凪沙を見た。
「……邪魔だったか」
「全然。色々と教えてもらえて面白かった」
「ノアは話し出すと止まらないから」
「殿下、聞こえています」
ノアが手帳から目を上げずに言った。
ノクスは少し苦笑いした。
「一つ確認したいことがあります、殿下」
ノアが手帳を閉じて、ノクスを見た。
穏やかな目だったけれど、その奥に真剣な光があった。
「ティアの光、今週また落ちましたか」
ノクスの顔が少し固くなり目を逸らした
「……ああ」
「数値にすると半年前の三割減です。このペースが続けば、二年以内に」
「ノア」
ノクスが静かに遮った。
ノアはちらりと凪沙を見て、それから頷いた。
「失礼しました。続きはまた改めて」
ノアは立ち上がって、深くお辞儀をして中庭を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、凪沙はノクスに声をかけた。
「二年以内に、何?」
ノクスは言うのを躊躇うかのように黙り込んだ。
中庭の噴水が低い音を立てている。
夕暮れの光が石畳を橙色に染めていた。
「……ティアの光が、完全に消える」
その静かな声に凪沙は何も言えなかった。
ノクスは噴水の方を見ていた。
その横顔に夕暮れの光が当たり、王子らしい端正な顔をしているのに、今だけはひどく年相応に見えた。
十八歳の青年が一人で大きすぎるものを抱えている顔をしていた。
「だから、凪沙が来てくれてよかったと思っている」
「ノクス」
「……でも、お前に全部背負わせるつもりはない。それだけは分かっていてほしい」
凪沙はしばらくノクスを見ていた。
それから、鏡を両手でそっと包んだ。
「一人で抱えてきたんだね、ずっと」
「……それが俺の役目だから」
「役目だからじゃなくて、他に誰もいなかったんでしょ」
ノクスの目が少し揺れた。
中庭には夕暮れが満ちており、魔法の灯りがひとつ、またひとつと点き始めて石畳の上に柔らかな光の輪を作っていた。




