第九章 肖像画の少女
迷子になったのは完全に凪沙のせいだった。
朝、ジブリールと約束していた場所へ向かう途中で廊下を一本間違えた。
引き返そうとして、また間違えた。
王宮の廊下はどれも同じような石畳と白い壁が続いていて、慣れないうちはどこがどこなのか全然分からない。
しばらく歩き回っていると、普段通らない奥の廊下に出た。
人気がなく、静かだった。
壁に沿って古い燭台が並んでいて、その間に何枚かの絵画が飾られていた。
歴代の王族の肖像画だろうと思って、通り過ぎようとしたけど一枚の絵の前で足が止まった。
若い男性の肖像画だった。
銀色の髪、深い蒼の瞳。
端正な顔立ちをしていて、画面の少し外を見ているような視線だった。
どこか遠くを、大切なものを見送った後のような目をしていた。
ノクスに、似ている。
でも違う。
ノクスより少し線が柔らかくて、どこかに深い哀愁があった。
絵の中の人物は微笑んでいるのに、その微笑みが悲しかった。
絵の下に、小さな金属のプレートが嵌め込まれていた。
――アルタイル・ルクセリア。
名前は知らなかった。
だけど銀髪も蒼い瞳も、よく似ていたことからノクスと同じ王家の人だろうと思った。
もう一度、絵を見た。
遠くを見ているその目が、なんだか胸に刺さった。
微笑んでいるのに、悲しかった。
見送った後のような目というより、もう帰ってこないと知りながらそれでも待っている目のように見えた。
なぜそんな風に感じるのか、自分でも分からなかった。
手の中の鏡が、じんわりと温かくなった。
✦ ✦ ✦
ジブリールとの約束に遅れて、凪沙はやっと正しい廊下に戻ってきた。
ジブリールは怒るどころか「迷子になったんですか!かわいい!」と笑った。
午後になって、ノクスと中庭で話す時間があった。
凪沙は思い切って聞いた。
「今日、迷子になって、奥の廊下に出てしまって」
「ああ、あの辺りは分かりにくい。次から気をつけてくれ」
「肖像画があったの。アルタイルって書いてあった。ノクスにすごく似てたから気になって」
ノクスの手が、少し止まった。
持っていた茶のカップを、ゆっくりと置いた。
「……見たのか」
「王家の人?」
「俺の祖父だ」
「やっぱり。似てると思った」
「よく言われる」
短く答えて、ノクスは中庭の噴水の方を見た。
しばらく黙っていたが凪沙は急かさなかった。
やがてノクスが話し始めた。
「祖父は……生涯、一人の人を忘れられなかった人だ」
「一人の人?」
「異世界から来た少女だ。若い頃に出会って、共にルミナリアを救って、そして帰っていった。名前も、どこに行ったのかも分からなかったと聞いている」
凪沙の胸が、ゆっくりと重くなっていった。
「その人が……鏡の聖女?」
「そうだ。歴史書には名前が残っていない。ただ、鏡の聖女と呼ばれている」
「ノクスは、その人のことを知ってる?」
「祖父から少しだけ聞いた。子どもの頃に。黒い髪の、優しい目をした少女だったと。笑うと周りが明るくなるような人だったと」
凪沙は鏡を見た。
手のひらの中で、銀色の蓋がひっそりと光っていた。
黒い髪。優しい目。
祖母の顔が浮かんだ。
笑うと目が細くなって、皺が深くなって、それでも若い頃の面影が残っていた祖母の顔が。
「……祖父は、その人が使っていた鏡を、帰還の日に渡したと記録に残っている」
ノクスが続けた。
「王家の秘宝を外へ出すことは本来許されない。でも祖父はそうした。鏡自身が、その少女を選んだから」
凪沙は胸の中で、何かがゆっくりとはまっていく感覚があった。
パズルのピースが、一つずつ正しい場所に収まっていくような。
「ノクス」
凪沙はノクスを見た。
「前に、その聖女が私の祖母だったりするのかって聞いたよね。あの時は『分からない』って言ってたけど」
「……ああ」
「私の祖母は……牧浦千鶴という人で、亡くなる前までこの鏡をずっと大切にしてた。誰にも見せないで引き出しの奥にしまって。鏡の話は私にも話さなかった。でも、私が幼い頃に見つけちゃって、鏡に触れた時だけ少しだけ見せてくれた」
ノクスは静かに凪沙を見ていた。
「黒い髪で、優しい目をしてた。笑い方も……今、ノクスが言った通りだった気がする。なんとなくだけど」
それは長い沈黙だった。
中庭の噴水が流れる音だけが聞こえていた。
ノクスはゆっくりと口を開いた。
「……あの時は、可能性の一つだと思っていた。でも今は」
「うん」
「もう、可能性の話じゃない気がする」
凪沙の目が少し潤んだ。
泣きたいわけじゃなかった。
ただ、胸の中にあった霧が、少しずつ晴れていくような感覚があった。
「おばあちゃんはここにいたんだね」
呟くように言った。
「ここで、アルタイルさんと出会って。一緒に何かを救って。でも帰らなきゃいけなくて」
ノクスは黙って聞いていた。
「アルタイルさんは……どんな気持ちだったんだろう」
「……分からない。でも」
ノクスは少し間を置いてから続けた。
「生涯忘れられなかったということは、俺には分かる」
その言葉の重さを凪沙はしばらく胸の中で受け止めていた。
中庭に風が吹いて白い花びらが一枚、噴水の水面に落ちた。
波紋がゆっくりと広がって、消えた。




