第十章 ここにいる理由
ルクセリアに来て、二週間が経った。
最初の頃より、日差しが強くなってきた気がした。
王宮の中庭に咲いていた白い花が散って、代わりに濃い緑が増えていくことでわかる。
季節が、少しずつ動いていた。
気づけば朝の目覚めが早くなっていた。
日本にいた頃は目覚ましが鳴るまでぎりぎりまで眠っていたのに、今は空が白み始める頃に自然と目が開く。
窓から差し込む朝の光の色が、少しずつ好きになっていた。
食事も最初はどれが何なのか分からなくて恐る恐る口をつけていたのに、今では好きなものがいくつかできた。
夕食によく出る赤いスープと、甘くて少し酸っぱい果物と、朝のルミナの花のお茶に慣れてきてる。
その事実に気づいた時、凪沙は少し複雑な気持ちになった。
嬉しいような、怖いような。
ここに馴染んでいくことが、どこか後戻りできない場所へ進んでいくような気がして。
✦ ✦ ✦
その日の午後、ジブリールが王宮へ来た。
非番の日らしく、いつもの制服ではなく淡い黄色のワンピースを着ていた。
「凪沙さん、今日は私の行きつけのお菓子屋さんに連れていきます!」
「ノクスやカインさんに許可取れた?」
「取りました!ちゃんと!」
ジブリールは誇らしげに胸を張った。
凪沙は笑いながら上着を羽織った。
王都の大通りをジブリールと並んで歩くのが最近の凪沙の好きな時間の一つになっていた。
ジブリールはよく話してくれる。
王宮で見聞きした面白い話、聖堂で出会った変わった参拝者の話、幼い頃の話。
どれも面白くて、凪沙は歩きながら何度も笑った。
お菓子屋さんは大通りから少し入った細い路地にあった。
小さな店だったけれど、中に入ると焼き菓子の甘い香りがふわりと広がった。
ショーケースの中に、見たことのない形のお菓子がずらりと並んでいた。
「これが一番好きなんです。ルミナ糖っていって、魔法で作った砂糖を使ってるんですよ。普通の砂糖より甘くて、食べると少しだけ温かくなる感じがして」
「魔法で作った砂糖……」
「食べてみてください」
ジブリールが差し出したのは、小さな星形のお菓子だった。
口に入れると、ふわりと甘くて、本当に胸の奥がじんわりと温かくなった。
「美味しい」
「でしょう!」
二人でショーケースを覗きながら、あれこれ選んで小さな袋に詰めてもらった。
店の外に出ると、お菓子の袋を抱えたジブリールが凪沙を見た。
「凪沙さん、最近楽しそうですね」
「そうかな」
「最初来た頃よりずっと。顔が柔らかくなったというか」
凪沙は少し考えた。
楽しい、という言葉が正確かどうか分からなかった。
でも嘘でもなかった。
「ここが好きになってきてるんだと思う。街も、食べ物も、魔法の灯りも。あなたのことも」
「私のこともですか!嬉しい!」
ジブリールが飛び跳ねるように喜んだ姿に凪沙はまた笑った。
でも歩きながら、胸の中に少しだけ影が差した。
好きになればなるほど、帰る時が怖くなる。
帰れるのかどうかも、まだ分からないのに。
「帰れるのかな、私」
誰にも聞こえないその小さな独り言はルクセリアに来てからずっと、心の奥底に沈めてあった。
誰にも聞けなかった。
聞いてしまえば、何かが決定的になる気がして。
✦ ✦ ✦
夜、部屋に戻ってから凪沙は鏡を手に取った。
銀色の蓋をそっと撫でて、涙型の紋章が指先に触れた。
「おばあちゃんも、こうしてた?」
誰もいない部屋で呟いた。
祖母もここに来て、同じ空気を吸って、同じ魔法の灯りを見て、アルタイルさんと並んで歩いたのだろうか。
好きになって、帰りたくなくなって、でも帰らなければならなくて。
どんな気持ちで現代へ戻ったのだろう。
鏡は何も答えなかった。
ただ静かに、手のひらの中に収まっていた。
しばらくすると扉がノックされた。
「凪沙、起きているか」
ノクスだった。
こんな夜遅くに珍しいと思いながら「起きてるよ」と答えた。
扉を開けるとノクスが立っていて、その目は凪沙をまっすぐ見ていた。
「少し、いいか」
「うん」
二人で廊下の窓辺に並んで立った。
窓の外に、夜の王都が広がっていた。
魔法の灯りがいくつも揺れていて、遠くに聖堂の尖塔が見えた。
しばらく二人とも何も言わなかったけど、これは嫌な沈黙ではなかった。
ただ並んで、同じ夜景を見ていた。
やがてノクスが口を開いた。
「今日、父上と話した」
「うん」
「ティアのことで。ノアの出した数値を見せた」
凪沙は黙って聞いていた。
「父上は……お前のことを頼りにしていると言っていた」
少し間を置いてからノクスが続けた。
「でも俺は、お前をティアのためだけにここに置きたいわけじゃない」
「……どういう意味?」
「お前がここにいることが、俺には……」
ノクスは途中で言葉を止めて窓の外を見た。
よく見ると耳が少し赤くなっていた。
「その、助かっている。それだけだ」
凪沙はノクスの横顔を見た。
言いかけてやめた言葉の続きが何だったのか聞かなかった。
でも、胸の中がじんわりと温かくなった。
それは鏡が温かくなる時と少し似ていた。
「私も……ここにいてよかったと思ってる」
凪沙は窓の外に目を向けた。
「ノクスと、ちゃんと会えてよかった」
窓ガラスに映った彼の顔が少しだけ緩んでいた。
夜の王都で、魔法の灯りがゆらゆらと揺れていた。
二人分の影が、窓の外の暗がりに静かに重なっていた。




