第五十章 扉の向こうへ
出発の朝は、冬晴れだった。
空が、高くて、青くて、雲が一つもなかった。
こんなに澄んだ朝はルクセリアに来てから初めてかもしれなかった。
まるで、今日のために用意された空のようだった。
凪沙は、いつもより少し丁寧に身支度をした。
来た時と同じパジャマ姿で帰るのは何となく嫌だったので、ここで着るようになった服を着て、セシリアからもらったショールを纏った。
鏡は手にしっかりと持った。
部屋を出る前に、もう一度だけ振り返った。
白い天井。彫刻の施されたアーチ型の梁。窓から差し込む朝の光。
最初に目が覚めた時、ここが夢ではないと分かった部屋。
ありがとう、と心の中で言った。
✦ ✦ ✦
聖堂へ向かう道に、みんながいた。
ノクス、カイン、ノア、ジブリール、ヴィクター。そしてレグルス王とセシリアまで、揃って見送りに来てくれていた。
凪沙は目に焼き付けるように、その顔を一人ずつ見た。
言葉は昨日までにもう言い尽くしていたから、誰も余計なことを言わなかった。
ただ、そこにいてくれた。
それだけで、十分だった。
ジブリールが目を赤くしながらも小さく手を振ってくれたので、手を振り返した。
カインは深く頭を下げ、ノアは手帳を胸に抱えたまま何かを言いたそうにして、でも何も言えなくて、ただ頷いた。
セシリアは凪沙の頬に手を当てて何も言わずに微笑んだ。
レグルス王は静かに目を細め、ヴィクターは深く一礼した。
そしてノクスが凪沙の隣を歩いた。
聖堂の扉の前まで、一緒に来てくれた。
✦ ✦ ✦
聖堂に入ると、ティアの光が出迎えた。
完全に戻った光が聖堂の最奥を深く照らしていて、その前に扉があった。
前回と同じように石壁の上に光で出来た輪郭が浮かびあがっていて、凪沙を待っていてくれていた。
凪沙はティアの前に立ち鏡を開いた。
鏡面がティアの光を受けて輝き、縁の文様がまた金色に光り始め、扉が少し強くなった気がした。
凪沙は後ろを向むくと、みんながいた。
聖堂の入り口に、並んで立っていた。
その顔が、ティアの光の中でぼんやりと見えた。
ノクスと目が合ったけど何も言わなかった。
言葉は、もう全部言っていた。
でも、目が合った瞬間に全部が伝わった気がした。
『ありがとう』という気持ち。『好きだ』という気持ち。『前を向いていてほしい』という気持ち。そして『あなたに会えてよかった』という気持ちが。
ノクスの目も言葉にならないものが全部そこにあった。
凪沙は、鏡を胸に当てた。
この世界を選ばない。
だから帰る、心の中ではっきりと思った。
すると鏡が強く輝いて、次の瞬間…扉が開いた。
そのは光が凪沙を包んだ。
光はとても温かくてティアの光と同じ色だった。
女神の涙と同じ色。
おばあちゃんが帰った時も、きっとこんな光だったのだろうと思った。
最後に、もう一度だけノクスを見た。
彼はそこにいた。
まっすぐ、凪沙を見ていた。
凪沙は微笑んだ。
それが、最後に見たノクスの顔だった。
✦ ✦ ✦
気づいたら、畳の上に座っていた。
冷たく馴染んだ感触で、古い木材の匂い。
どこかで鳥が鳴いている。
ここは祖母の部屋だった。
「帰ってきた…」
窓から、春の午後の光が差し込んでいた。
あの日と、同じ光だった。
引き出しが半分開いていて、段ボール箱が隅に置かれていた。
あの日の、続きがそこにあった。
ルクセリアへ渡った春の午後が、まだ続いている。
凪沙は手の中の鏡を見た。
銀色の蓋が、春の光を受けて、静かに輝いていた。
昨日と変わらない鏡だったが、縁の文様は、もう金色には光っていなかった。
全てを伝え終えた鏡の穏やかな顔をしていた。
手のひらに、まだノクスの温度が残っている気がした。
本当は残っていないのに残っている気がしてならなかった。
ただいま、おばあちゃん。
心の中で言った。
すると廊下から、母の声が聞こえてきた。
「凪沙、そっちの引き出しもお願いできる?」
凪沙は少しの間、その声を聞いていた。
懐かしくて、温かくて、普通の声だった。
涙が、一筋流れた。
「うん、今行く」
震えそうになる声をなんとか堪えて、凪沙は立ち上がり鏡を胸に抱いて廊下へ向かった。
春の光が、廊下を白く照らしていた。




