エピローグ 星の名前
凪沙は、いつものように高校に通うようになった。
友達に「なんで休んでたの?どこか行ってた?」と聞かれた時、「ちょっと体調崩してて」と答えた。
これは嘘ではなくて、戻ってきた直後、凪沙は三日ほど熱を出したからだった。
ルクセリアでの一年近くが、体の中で現代に追いついてくるような、そんな感覚があった。
母はとても心配してくれて、熱が下がった後もしばらく凪沙の様子を気にしていた。
凪沙は、そのたびに「大丈夫だよ」と言った。
本当に大丈夫だった。
春が過ぎ、夏が来て、秋が来て、冬になって、日本の冬はルクセリアの冬より少し湿っていた。
空気の匂いが違った。
それでも冬は冬だった。
寒くて、空が高くて、星が綺麗だった。
✦ ✦ ✦
鏡は、引き出しの奥にしまうことをやめた。
祖母がしていたように誰にも見せずに隠しておくのではなく、枕元に置いて毎晩見ることにした。
鏡の隣には小さな袋が置いてあった。
それはガラスで作られた雫型の飾り。
あの夜ノクスが買ってくれたもので、光を当てると今も虹色に散らばった。
鏡も雫型の飾りも、見ているだけで全部思い出せた。
ノクスの声が耳の奥に残っていた。
ジブリールの笑顔が目に焼きついていた。
カインの不器用な優しさが胸の中にあった。
ノアが手帳を落とした、あの嵐の山の場面がまだ鮮明だった。
ヴェルガの賑やかな市場も。フィオラの広い平原も。ヴェルナの海も。セントリアの塔も。中庭の噴水の音も。聖堂のティアの光も。
全部、覚えていた。
全部、残っていた。
✦ ✦ ✦
ある夜、凪沙は久しぶりに夢を見た。
ルクセリアから帰って来てから、もう夢の中では会えなくなっていたから。
扉をくぐった後は、夢も変わるのだろうと思っていた。
夢の中は、どこかの中庭だった。
春の花が咲いていて、噴水の音がしていた。
そこにノクスがいた。
以前より少し大人びた顔をしていた。
でもその目は変わっておらず、深い蒼の瞳が凪沙をまっすぐに見ていた。
夢の中で言葉を交わすことなく、お互いに見つめ合っていた。
それだけで分かった。
彼は、ちゃんと前を向いて生きているということを。
凪沙は、夢の中で微笑んだ。
ノクスも、少しだけ口元を緩めた。
その表情を見届けた時、目が覚めた。
✦ ✦ ✦
朝、窓から空を見た。
冬の朝の空は青くて高かくて、どこまでも続いているような、そういう空だった。
ルクセリアでノクスと並んで見た、あの冬の空と同じ色をしていた。
鏡を手に取ると銀色の蓋が、朝の光を受けてかすかに輝いた。
おばあちゃん、あなたが歩いた道を私も歩いた。
あなたが見た星を、私も見た。
あなたが愛した世界を、私も愛した。
鏡は答えなかった。
でも手のひらの中で、ずっとそこにあった。
ルクセリアでの一年近くは向こうの世界での話だった。
こちらの世界では、ほんのわずかな時間しか経っていなかった。
でも、凪沙の中では確かに一年近くが生きられていた。
その時間は、誰にも奪えなかった。
廊下から、母の声がした。
「凪沙、朝ごはんできたよ」
「うん、行く」
鏡を枕元に置いて、部屋を出た。
廊下に朝の光が差し込んでいた。
いつもと同じ、普通の朝だった。
でも、この「普通の朝」が凪沙には少し違って見えた。
この世界にも、大切なものがある。
この空気も、この光も、この声も、全部が、少し輝いて見えた。
遠い世界で、ノクスも今日を生きているだろう。
同じ空の下ではないけれど、それぞれの今日を。
それで、よかった。
それで、十分だった。
―― 了 ――




