第四十六章 扉の前で
とうとう儀式の日がやって来て、朝から王宮の空気は違っていた。
使用人たちの動きが静かで、廊下を行き交う人の数が少なかった。
まるで王宮全体が、今夜のことを知って息を潜めているようだった。
凪沙は緊張というより何か大きなものの手前に立っている感覚があり、朝食をほとんど食べられなかった。
テーブルの前に座り、白いパンを一口食べただけで、それ以上は喉が通らなかった。
今夜を境に何かが変わるような気がして、それが何なのかまだはっきりとは分からなかった。
セシリアが昼過ぎに部屋を訪ねてきて、凪沙の手を取って、しばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「どんな結果になっても、あなたがここへ来てくれたことは永遠に変わらない事実よ」
凪沙は、その言葉を胸の奥深くにしまった。
✦ ✦ ✦
夜になって月が昇り始めた頃、一行は聖堂へ向かった。
ノクス、凪沙、カイン、ノア、ヴィクター、そしてレグルス王とセシリア。
王都の夜道を誰も話すことなく静かに歩いたので、足音だけが石畳に響いた。
凪沙は涙晶を布に包んで胸に抱えており、鏡はいつものように手の中にあった。
歩くたびに鏡が温かくなっていて目的地が近づくにつれて、その温度がさらに高くなっていった。
聖堂の扉が、夜の中に白く浮かびあがっていた。
✦ ✦ ✦
聖堂の中は、いつもと違っていた。
魔法の灯りが全て消されていて、ティアの光だけが空間を青白く照らしていた。
凪沙は素足で石畳に立って、ティアを初めて見た最初の夜を思い出していた。
あの時と同じ光のはずなのに今夜は違って見えた。
三粒の涙晶と鏡がこの場所に揃っていて、それが空気の質を変えているような気がした。
まだ完全ではない、けれど今夜完全になる。
ヴィクターが、ティアの前に立ち凪沙に声をかけた。
「凪沙様。一粒づつ涙晶をティアに近づけてください。鏡はその間、開いたままにしていてください」
凪沙は頷き、布を開いて涙晶を取り出した。
海で見つけた二粒目の涙晶を持ち、ティアに近づけると光が揺れた。
涙晶の光が応えるように輝いて、二つの光が共鳴し始めた。
ヴィクターが静かな声で、古い言語の祈りを唱え始めると、その声が石造りの聖堂の中に低く広がっていった。
涙晶が、ティアの中に吸い込まれるように溶けていった。
次に、山で見つけた三粒目の涙晶を持った。
これも同じように近づけると、光が大きく揺れ、今度は前よりずっと強く聖堂全体が青白い光に満たされていった。
三粒目の涙晶が、ティアに還っていった。
その瞬間、ティアの光が爆発するように広がった。
その光は眩しくて、思わず目を細めた。
でも、怖くなかった。
むしろ温かくて、その光の中に祈りのようなものが満ちていた。
✦ ✦ ✦
光が落ち着いた時、ティアはこれまでとは全く違う姿になっていた。
千年前から続く、揺るぎない光。
それが今、目の前に戻っていた。
弱まっていた頃の頼りなさは、どこにもなく、深くて強く安定した輝きが聖堂の最奥を満たしていた。
誰も、何も言えなかった。
その光の中に、何かがいる気がした。
形はない、声もない、でも確かに何かの存在がこの場所に満ちていた。
温かくて、古くて、懐かしいような何かが。
凪沙はそれが何なのか言葉にできなかったけれど、鏡を胸に当てているとその存在が少し近くなる気がした。
ノアが震える手で数値を測り始めたが、その手が途中で止まった。
「……完全に、戻っています」
掠れた声で言った。
レグルス王がゆっくりとティアに近づき、その目には長い間抑えてきた何かが静かに溢れていた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。
ティアに向けてなのか、凪沙に向けてなのか、女神に向けてなのか。
あるいは、全部に向けてなのかもしれなかった。
ヴィクターが、凪沙の隣に来ると安堵の表情を見せてくれた。
何十年も、何百年もずっと抱えてきたものが少し下りたような顔で、目がわずかに潤んでいた。
長い時間を生きてきた人が、ようやく何かを見届けたという顔だった。
「次は扉です。鏡をティアに向けてください。三つの涙が揃い、鏡が聖堂にある今、扉が開くはずです」
✦ ✦ ✦
凪沙は鏡を両手で持ち、ゆっくりとティアに向けると鏡面が激しく輝き始めた。
その光がティアの光と混ざり合って聖堂の空気が変わり、壁に光の模様が現れた。
見たことのない文字のような、図形のような、それでいてどこか懐かしい模様が石造りの壁に投影されていった。
それがゆっくりと広がって、やがて一点に収束し、聖堂の奥の壁に縦長の光の輪郭が浮かびあがった。
それは、扉だった。
光で出来た扉が石壁の上に現れ、向こうに何があるのかは見えなかった。
ただ、その向こうに別の何かがあるということだけが伝わってきた。
凪沙は、その扉を見つめた。
隣でノクスが息を呑む気配がし、カインが静かに手を剣の柄に当てた。
ノアは何かを書き留めようとして手帳を落とした。
扉は、揺れながらそこにあった。
✦ ✦ ✦
その時、凪沙の手の中の鏡が強く輝いた。
その光は鏡面ではなく縁から光が溢れており、文様の一つひとつがまるで火が灯ったように金色に輝いていた。
そして、これまでほんの一部しか見えていなかった縁の文様が、全部はっきりと見えた。
凪沙は、思わず鏡を顔に近づけた。
扉の光と、ティアの光と、鏡の光が交わる中で縁に刻まれた言葉が初めて完全に読めた。
でも、それが何を意味するのか理解するには少し時間が必要だった。
扉は、急かすことなく静かに待っていた。
鏡はその願いを聞くというルナリアの言葉が頭の中で響いた。
今夜は、まだ扉をくぐる時ではないと凪沙は感じた。
先に鏡が見せてくれたこの言葉の意味を、ちゃんと理解してからじゃないといけないと思えたから。
「……今夜は、ここまでにしてください」
凪沙が言うと、ヴィクターが静かに頷いた。
「扉は、しばらくの間そこにあり続けるでしょう。あなたが決意した時に開かれます」
凪沙は鏡を胸に引き寄せると縁の文様が、まだ金色に輝いていた。
ティアの光が聖堂を満たして千年前の輝きが今夜、戻ってきた。
でも凪沙には今夜の本当の意味が、まだこれから分かる気がしていた。




