第四十五章 儀式の前夜
満月の夜まであと一日になり、王宮の中で準備が粛々と進められていた。
ノアが最終確認の計算をし、カインが警護の配置を確認していた。
ノクスはレグルス王と長い時間話し合っており、ヴィクターは聖堂の最奥を静かに整えていた。
それぞれが、自分の役割を果たしていた。
その中で、凪沙にできることは今夜の自分と向き合うことだけだった。
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夜が更けてから、凪沙は部屋の窓辺に座った。
月が、もうほとんど満月に近い形をしていた。
あと一日で、真円になる。
その月明かりが、部屋に柔らかく差し込んでいた。
手の中の鏡を開くと鏡面が青白く輝いていて、縁の文様がこれまでで一番はっきりと、金色に光って見えた。
明日、この鏡と三つの涙晶を聖堂に持ち込む。
すると扉が開き、そしてその時に鏡は凪沙の意志を聞く。
残るか、帰るか。
ずっと答えを出せなかった問いが、今夜はもう逃げられない場所まで来ていた。
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お母さんのことを、考えた。
牧浦美咲。四十四歳。
現実的で、少し不器用で凪沙の夢の話を空想だと思っていた人。
でも、毎朝必ず朝食を作ってくれていた人。
凪沙が落ち込んでいる時、何も言わずそっと温かい飲み物を置いてくれた人。
今頃、どうしているだろう。
ノアの仮説が正しければ、向こうの世界では、まだそれほど時間が経っていないかもしれない。
でも、もし凪沙が帰らないと選んだなら、いつかお母さんは気づく。
娘が、戻ってこないことに。
その時、お母さんはどんな顔をするだろう。
凪沙の目が、じわりと潤んだ。
泣きたいわけではなかった。
ただ、その想像が、胸の奥に刺さった。
ごめんね、お母さん。
心の中で呟いた。
謝るだけでは足りないと分かっていたけど、今はそれしかできなかった。
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次に、この世界で出会った人たちのことを、一人ずつ思い浮かべた。
ノクスは夢の中で何年も会い続けた人。不器用で、誠実で、凪沙の前でだけ年相応の顔を見せてくれる人。
「好きだ」と言った時の声が、まだ耳の奥に残っている。
ジブリールは最初にできた友達。知らない場所で、まっすぐな目で「よろしくお願いします」と言ってきた子。
自分の体に何が起きるかもしれないか知りながら、いつも明るくいてくれる子。
カインは最初は警戒していたのに、中庭で「確かなものを守る」と言ってくれた人で、ノクスを一番近くで見てきた人。
ノアは鏡を見る目が、子どものように輝いていた人。食事を忘れながらも、凪沙のために調べ続けてくれた人。
セシリアは「困ったことがあれば何でも」と言って、毎回旅の前に何かを持たせてくれた人。
レグルス王は多くを語らないけれど、全部見えている目をした人。
ヴィクターは長い時間を背負って、千鶴を見送った後悔を、何十年も抱えてきた人。
この世界の人たちが、凪沙の中に深く根を張っていた。
それは、一年近くかけて積み重なった確かなものだった。
✦ ✦ ✦
扉が、静かにノックされた。
「凪沙、起きているか」
「うん」
扉が開いて、ノクスが入ってきた。
凪沙の顔を見て、目元が潤んでいるのに気づいたのか、少し立ち止まった。
でも何も言わずに窓辺の隣に座わり、月明かりが部屋を静かに照らしていた。
「お母さんのことを、考えてた」
「……そうか」
「帰れば、また会える。でも帰ったら、ここには戻れない。残れば、もうお母さんに会えないかもしれない」
「分かっている。だから、俺は……お前に残ってほしいとは言えない」
凪沙がノクスを見ると、その横顔が月明かりの中で、いつより少し苦しそうだった。
言いたいことを、抑えている顔だった。
「でも、帰ってほしいとも……言えない」
「……ノクス」
「どちらでも、凪沙の選択を俺は受け入れる。でも……どちらを選んでも、凪沙が自分の気持ちに正直でいてほしい。誰かのためじゃなく、凪沙自身のために選んでほしい」
凪沙は、その言葉を受け止めた。
ルナリアの言葉が蘇った。
あなたには選ぶ自由がある、と。
鏡はどの選択も否定しない、と。
「ノクス」
「なんだ?」
「私ね、ずっと答えが出なかったのは……どちらかを選ぶことが、どちらかを裏切ることになる気がしてたから」
「………」
「でも、今夜考えて……分かった気がする。どちらを選んでも、私が大切にしているものは、消えないんだって。お母さんへの愛情は帰っても帰らなくても、変わらない。ここで出会った人たちへの気持ちも同じで」
「……そうだな」
「だから、明日は……自分の気持ちに、ちゃんと正直に答えを出す」
ノクスは凪沙をじっと見つめると、目が月明かりの中で静かに揺れていた。
「……信じている」
短く、でも確かな言葉だった。
凪沙は、鏡を両手で包んだ。
温かかくて、手のひらの中で青白い光が揺れていた。
窓の外で、満月に限りなく近い月が王都を照らしていた。
明日、扉が開く。
その先に何があるのか、まだ分からない。
でも今夜、凪沙は自分の心の中を初めてきちんと見た気がした。




