第三十九章 変わったもの、変わらないもの
第三十九章 変わったもの、変わらないもの
翌朝、凪沙は少し早く目が覚めた。
昨夜のことが夢だったのかと思った。
でも、手のひらに残っているノクスの手の確かな温度が温度の感覚が、夢ではなかったと教えてくれた。
窓の外を見ると冬の朝の光が差し込んでおり、石畳が霜で白くなっていた。
ルクセリアに来てから、もうすぐ八か月になろうとしていた。
春に来て、季節が一周しかけている。
そのことを、今朝は不思議と穏やかな気持ちで受け止めていた。
✦ ✦ ✦
朝食の席に向かうと、廊下でノクスと鉢合わせた。
二人とも少しの間、何も言えなかった。
昨夜は言葉にできたのに、朝の光の中で顔を合わせると妙に照れくさかった。
「……おはよう」
先に口を開いたのは、凪沙だった。
「ああ。おはよう」
いつもと同じ言葉なのに、その声が少しだけ違って聞こえた。
柔らかくて、丁寧で、まるで言葉を大切に扱っているような声だった。
二人で並んで食堂へ歩いた。
その時間も、いつものことだったけれど今日は何かが違った。
歩く距離が少し近く感じ、それだけで凪沙の胸がじんわりと温かくなった。
✦ ✦ ✦
朝食の席にジブリールがいた。
今日は王宮に用事があって来ていたらしい。
凪沙とノクスが並んで入ってきたのを見た瞬間、ジブリールの目が丸くなった。
そして、じわじわと満面の笑みになった。
「……何かありましたね?」
開口一番に言った。
「何もない」
ノクスが即座に言ったが、その言葉がいつもよりほんの少し早かったのでジブリールは怪しんだ。
「嘘ですね」
「ジブリール」
「だって、お二人の雰囲気が全然違います! 昨日まではもう少しこう……距離があったというか、もどかしいというか!」
「うるさい」
ノクスが静かに言ったけれど、声に刺がなかった。
それどころか視線がわずかに横に逸れており、凪沙はその横顔を見て胸の中が温かくなった。
「ジブリール、後で話すね」
「絶対ですよ、凪沙さん!!」
ジブリールが目を輝かせて言った。
カインが、遠くから静かに溜め息をついた。
✦ ✦ ✦
朝食の後、カインが凪沙に声をかけてきた。
廊下の人気のないところで、少し立ち止まってカインは真顔で言った。
「昨夜、殿下のことは分かりました」
「……どうして知ってるんですか」
「殿下の様子を見れば分かります。今朝の顔が、昨日と全然違いますから」
凪沙は少し驚いて、カインを見た。
カインは相変わらず無表情だったけれど、その目の奥に穏やかな光があった。
「一つだけ、言わせてください」
「はい」
「殿下は、これまで誰かのために感情を見せることが、ほとんどなかった。だから、あなたのことが大切なのは本物です」
凪沙は、カインの言葉を静かに受け止めた。
ノクスのことをずっと近くで見てきた人だということが、この一言でよく分かった。
「……ありがとうございます、カインさん」
「礼には及びません。ただ……あなたも、無理をしないでください」
その言葉が、凪沙には少し意外だった。
カインは凪沙に向かって、こんな風に心配の言葉をかけてくれる人になっていた。
最初に聖堂で会った時の警戒した目つきとは、もう全然違っていた。
✦ ✦ ✦
午後、ノクスが段取りをしてヴィクターと話し合いの場が設けられた。
小さな部屋に、ノクス、凪沙、ノア、そしてヴィクターが集まった。
昨夜の謁見とは違う、穏やかな空気だった。
ヴィクターは、いつもの白い長衣を着ていたけれど、昨夜からその印象が少し変わっていた。
不気味な老人ではなく、長い時間を背負った、ただの人間に見えた。
「ヴィクター、予言の続きをもっと詳しく教えてほしい。扉が開く時、聖女は元の世界へ戻されるとあなたは言った。それは絶対のことなのか」
ノクスの率直な問いにヴィクターは、しばらく考えてから答えた。
「ルナリアの予言には、こう続きがあります。『扉が開かれる時、鏡は聖女を故郷へ送り返す。ただし、聖女が自らの意志でこの世界を選ぶなら、鏡はその願いを聞く』」
「自らの意志で……選べる、ということですか」
ノアが、手帳を握りながら聞いた。
「そう読めます。ただ、私にはその先が分からなかった。『聖女が選ぶ』とは具体的に何を意味するのか」
凪沙は鏡を見るると手のひらの中で静かに輝いていた。
「鏡が、聖女を故郷へ送り返す」
凪沙は、ゆっくりと言った。
「でも、鏡は私の意志を聞く。ルナリアの文書にも、そう書いてありました。鏡はどの選択も否定しないって」
ヴィクターの目は、昨夜とは違う光があった。
それはきっと、驚きに近い何かが。
「その文書を、読みましたか」
「セントリアで」
「……なるほど。ならば、あなたはすでに答えを持っている。鏡はあなたの選択に従う。扉を開いた後、帰ることも、残ることも、あなたが決められるのかもしれません」
凪沙は、その言葉を胸の中で転がした。
自分が、選べる。
ルナリアが言っていた通り、鏡は命令しない。
ただ、照らすだけだ。
隣でノクスが小さく息を吐き、張り詰めていたものが少し解けたような音だった。
「分かった。ありがとう、ヴィクター」
ノクスは昨夜の厳しさとは違う、穏やかな声だった。
ヴィクターは、深く頭を下げた。
「私の方法が間違っていたことを、改めて詫びます。ただ……千鶴様とアルタイル様のことは、今でも後悔しています」
その言葉に、誰も何も言えなかった。
でも、凪沙は静かに頷いた。
「おばあちゃんのこと、覚えていてくれてありがとうございます」
ヴィクターは、少し目を細めた。
その顔に、初めて穏やかな表情が浮かんだ。
「私は嬉しいのです。千鶴様のお孫様である凪沙様とこうして会えたことが。千鶴様はルクセリアから帰られた後、幸せになられたんですね」
「はい。幸せだったと思います」
部屋の窓から、午後の光が差し込んでいた。
まだ、やるべきことはたくさんある。
でも今日、一つ、霧が晴れた気がした。




