第三十八章 約束の意味
謁見が終わった後、凪沙は一人で部屋に戻った。
扉を閉めると外の音が遠くなった。
窓の外では、王都の魔法の灯りがいつものように揺れていた。
その光を見ながら、凪沙はベッドの端に腰を下ろして手の中の鏡をじっと見つめた。
扉を開く時、聖女は元の世界へ戻される…と話してくれたヴィクターの言葉が頭の中で何度も繰り返された。
これまで「帰れるかもしれない」という不安と「ここにいたい」という気持ちの間で揺れていた。
でも今は、それが選択の問題ではなくなるかもしれないということを突きつけられた気がした。
女神の扉を開いたら、私は帰される。
選べないとしたら。
ノクスに何も言えないまま、ただ消えるように元の世界へ戻るとしたら。
そう考えた瞬間、胸の中に初めてはっきりとした痛みが走った。
帰りたくない、という気持ちが。
それが、もうどちらが正直な感情か分からなかった頃の曖昧さとは違う確かな言葉として凪沙の中に存在した。
鏡が、手のひらの中で静かに脈打つような感覚があった。
✦ ✦ ✦
どのくらい時間が経った頃だろうか、扉が静かにノックされた。
「凪沙、開けてもいいか」
ノクスだと直ぐにわかり凪沙は「うん」と答えた。
その声が思ったより掠れていた。
ノクスが入ってくると部屋の中を見て、凪沙の顔を見て、それから何も言わずにベッドの隣の椅子に座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
窓の外の灯りが、静かに揺れていた。
「……一人で、抱えすぎていないか」
凪沙は少し考えてから、正直に答えた。
「怖い、というより……選べないかもしれないということが」
「予言が、本当だとしたら」
「うん。私が扉を開いたら、帰されるかもしれない。でも意志で残れるとも言ってたけど……本当にそうなのか、分からなくて。ノクスに何も言えないまま消えてしまったらって思うと」
その言葉を口にした瞬間、凪沙の目が少し潤んだ。
泣きたいわけではなかったのに、言葉にするとその真実がはっきりしてきた。
ノクスは、しばらく窓の外を見ていた。
その横顔が、いつもより硬かった。
「……俺は以前、言葉にするのを待つと言った。凪沙が帰れるかどうか分からない状態で俺の気持ちを言うのは、お前の選択に影響すると思っていた」
「うん」
「でも……今夜のヴィクターの話を聞いて、分かった。待っていたら言えないまま終わるかもしれない」
ノクスは視線を外から凪沙へ向ける。
ノクスの目はこれまでと違うものがあって、もう言い訳をしないという目のように思えた。
「凪沙」
「うん」
「俺は、凪沙のことが好きだ」
静かな夜の部屋に、その言葉が落ちた。
ノクスは、視線を逸らさなかった。
ほんの少し声が震えていたけれど、それでも言い切った。
「夢の中で会っていた頃から、ずっとそばにいたかった。ここへ来てくれた時、本当に嬉しかった。一緒にいる時間がどんな時よりも自分らしくいられると感じていた」
凪沙は何も言えず、ただ目が潤んでいくのを止められなかった。
「お前が帰ることになっても、俺の気持ちは変わらない。でも……それを知った上で、お前に選んでほしい。扉を開くことも、開かないことも凪沙が決めていい」
「ノクス……」
「俺のためだけに決めなくていい。凪沙には帰る場所がある。お母さんがいる。それは、ちゃんと大事なことだと思っている」
その誠実さが、胸に深く刺さった。
自分の気持ちをようやく言葉にしながら、それでも凪沙の自由を先に考えている。
この人はずっとそうだった。
夢の中でも、現実でも、ずっと。
「私も」
凪沙は声が震えそうになるのを、少しだけ堪えて言った。
「ノクスのことが、好きだよ」
ノクスの目が少し揺れ、長い間こらえていたものがようやく解けていくような顔だった。
「だから、一緒に考えたい。どうすれば扉を開いても……帰らずに済むか。予言の抜け道があるかもしれない。ヴィクターも、ノアも、きっと一緒に考えてくれる」
ノクスは、しばらく凪沙を見ていた。
それから静かに手を伸ばして凪沙の手の上に、そっと重ねた。
「……一緒に考えよう」
その手が、温かかった。
鏡が温かくなる時と似ていたけれど、今夜は鏡よりずっと確かな温度だった。
窓の外で、王都の灯りが揺れていた。
まだ答えは出ていない。
でも今夜、二人は同じ方向を向いた。
それだけで、少し世界が違って見えた。




