第三章 鏡の聖女
目が覚めた時、天井が違った。
白い石造りの天井。
彫刻が施されたアーチ型の梁。
柔らかい光が窓から差し込んでいて、カーテンがゆっくりと揺れていた。
日本の自分の部屋とは何もかも違うのに、なぜかひどく落ち着いた気持ちで凪沙はそれを眺めた。
昨夜のことは確かに現実だったのだと改めて感じた。
枕元に置いた鏡を手に取る。
銀色の蓋は朝の光の中でただ静かに光っていた。
昨夜みたいに青白く輝いてはいないけれど、手のひらに馴染む重さは変わらない。
ここはルクセリア王国。
ノクスがいる世界。
声に出してみると少し笑えてきた。
少女漫画の読みすぎと言った友達の顔が浮かんで、それから祖母の顔が浮かんだ。
きっといつか会えるよ、という声と一緒に。
「……おばあちゃんの言う通りだったね」
誰もいない部屋で凪沙は口元をほころばせた。
✦ ✦ ✦
朝食は部屋に運ばれてきた。
白いパンと、見たことのない果物と、温かいスープ。
運んできたのは若い女性の使用人で、凪沙を見てもほとんど表情を変えなかった。
ノクスが口止めをしているのだろうと思った。
食べ終えると少しして、扉がノックされた。
「入っていいか」
ノクスだった。
昨夜とは違って、きちんとした衣装を纏っていた。
濃紺の上着に銀の刺繍。
王子らしい格好なのに顔はいつもの夢の中の彼と変わらなくて、凪沙は少しだけほっとした。
「おはよう」
「……ああ。よく眠れたか?」
「うん。すごく」
「そうか」
ノクスは部屋に入ってきて、窓際の椅子に腰を下ろした。
凪沙もベッドの端に座り直す。
昨夜よりずっと明るい光の中で向き合うと、なんとなくお互いに少し照れくさいような空気になった。
先に口を開いたのはノクスだった。
「昨日、話すと言っていたことを」
「うん」
「どこから話せばいいか……」
少し困ったような顔をして、彼は続けた。
「まずここがどこか、は分かるか?」
「ルクセリア王国でしょ。夢の中でノクスが教えてくれたから」
「そうだ。凪沙の世界とは別の世界。魔法があって、ティアという聖遺物が王国の魔力を支えている」
「聖堂にあった、あの結晶が?」
「そうだ」
ノクスは少し間を置いてから、続けた。
声が、わずかに低くなった。
「そのティアが……最近、弱まっている」
凪沙は思わず顔を上げた。
「弱まってるって、どういうこと?」
「千年前から一度も消えたことがない光が年々薄くなっている。このまま続けば、いずれ魔法が使えなくなる。農業も、治療も、生活のすべてが崩れる」
静かな声だった。
でも、その静かさの奥に何かが滲んでいた。
ずっとこの重さを王子として抱えていたんだろうと凪沙は思った。
「それを国民は知らないの?」
「知らない。知らせるわけにはいかない。……だから誰にも言えなかった」
ノクスは窓の外に目を向けた。
朝の光の中に王都が広がっている。
昨夜魔法の灯りで輝いていた街が、今は陽光の中に白く静かに佇んでいた。
「そんな時、凪沙が来た」
「俺たちの間には伝説がある。かつてティアが危機に瀕した時、異世界から少女が現れて王国を救ったという話だ。その少女は常に鏡を持っていた。だから人々は彼女を」
「鏡の聖女」
凪沙が言うと、ノクスは少し目を見開いた。
「……知っているのか?」
「ううん。でも、なんとなく」
なんとなく、という言葉では足りない気がした。
知っているというより、骨の奥の方で聞いたことがある感じ。
きっと祖母の声だ。
まだ幼くて言葉の意味も分からなかった頃に子守唄みたいに聞かされた何かで。
手の中の鏡を、少し強く握った。
「その聖女が……私の祖母だったりする?」
ノクスはしばらく黙っていた。
答えを探しているのか、どこまで話すか迷っているのか。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……俺には、分からない。でも」
彼は凪沙の手元、鏡の方を見た。
「その鏡は、王家が代々守ってきた聖遺物だ。《ルミナの鏡》という。それが凪沙の手にある。それだけで俺には十分だと思っている」
凪沙はしばらく鏡を見つめた。
銀色の蓋に刻まれた涙の紋章。
昨夜の聖堂で見たティアと同じ形。
おばあちゃん。あなたはここにいたんだね。
✦ ✦ ✦
午後になって、服が届いた。
薄い水色のワンピースに、白いレースの上着。
この世界の服にしては動きやすそうで、凪沙には似合っていると思ったけれど運んできた使用人の女性が「本当はもっと豪華なものをご用意すべきなのですが」と恐縮そうにしていた。
着替えを終えて廊下に出ると、ノクスが待っていた。
凪沙の格好を見て何か言いたそうな顔をしたが、結局「似合っている」とだけ言った。
照れているのか、目がわずかに逸れていた。
「王宮の中を案内する。慣れない場所だろうから」
「ありがとう」
二人で廊下を歩き出した時だった。
角を曲がったところで、誰かとぶつかりそうになった。
「わっ、ごめんなさい!」
明るい声が廊下に弾けた。
ぶつかりかけた相手は、凪沙と同じくらいの年頃の女の子だった。
栗色の髪を二つに結んで、白と水色の制服みたいな服を着ている。
目がくりくりとして、ほっぺたが丸い。
女の子は凪沙を見て、それからノクスを見て、また凪沙を見た。
そして弾けるように笑った。
「えっ、もしかして噂の!?」
「ジブリール」
ノクスが静かに制した。
でも女の子は、ジブリールは全然気にした様子もなく凪沙に向かって深々とお辞儀した。
「はじめまして!ジブリールといいます。聖堂で働いてます。殿下とは子どもの頃からのご近所みたいなもので!」
「牧浦凪沙です。えっと……よろしくお願いします」
「凪沙さんっていうんですね! 素敵なお名前!どこの国の言葉ですか?」
「え、あの……遠い国の、言葉で……」
どう答えればいいか迷って凪沙が口ごもっていると、ジブリールは目をきらきらさせながら続けた。
「もしかして、もしかして、殿下が昔から夢で会ってたっていうあの方ですか!?私、ずっと気になってたんです!本当にいるんだって! しかも可愛い!」
「ジブリール」
今度はノクスの声が少し低くなった。
ジブリールはやっと口を閉じたが目は全然閉じていなかった。
凪沙を上から下までじろじろ見て、満足そうに頷いている。
「……仲良くしてあげてくれ」
ノクスが、少しだけ気まずそうに言った。
凪沙はジブリールを見た。
ジブリールも凪沙を見た。
「よろしくお願いします、凪沙さん!」
「うん、こちらこそ」
凪沙は笑った。
ルクセリアに来て初めて自然に笑えた気がした。
隣でノクスが小さく息をついた。
呆れているのか、ほっとしているのか凪沙には分からなかったけれど、その横顔はどちらかというと後者に見えた。




