第二章 星の名前
しばらく、二人とも動かなかった。
聖堂の中に松明の炎が揺れて、石畳の上に二人分の影を伸ばしている。
騎士たちは入り口の近くに控えたまま、こちらには近づいてこない。
ノクスがそうさせているのだろうと、凪沙はなんとなく分かった。
ノクスはしばらく凪沙を見ていた。
じっと、でも威圧的ではなく、どちらかというと夢の中の光景を確かめるみたいに静かな目で。
凪沙の方も、つい見てしまっていた。
夢で何度も見た顔なのに実際に目の前にいると全然違う。
光の当たり方とか、瞳の深さとか、ちゃんと息をしているということとか。
夢の中では分からなかったことが全部ここにある。
先に目を逸らしたのはノクスだった。
少しだけ咳払いをして言った。
「……まず、驚かせて悪かった」
「え?」
「騎士を連れて突然来たから。怖かっただろ」
凪沙は少し考えてから、首を振った。
「怖くはなかった。びっくりはしたけど」
「……そうか」
ノクスは短くそう言ってまた少し黙った。
言葉を選んでいるのか、それとも何か別のことを考えているのか凪沙には読み取れなかった。
「聞きたいことが山ほどあると思う」
やがて彼は続けた。
「ここがどこか、なぜお前がいるのか、これからどうなるのか。全部ちゃんと話す。でも今夜この場所で全部話すのは……少し難しい」
「どうして?」
「聖堂には神官がいる。お前のことを見られると、ややこしくなる」
言いながらノクスの視線が凪沙の足元に落ちた。
凪沙は素足だった。
それから上へ、パジャマ姿へ。
何かを言いたそうな顔をしたが、結局何も言わなかった。
「王宮に来てくれ。そこで話す」
「王宮……」
凪沙は思わずその言葉を繰り返した。
夢の中でノクスが「自分は王子だ」と教えてくれたのは確か十二歳の頃だったけれど、その時も今と同じくらい実感が湧かなかった。
「怖いなら、無理にとは言わない」
ノクスの声は、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
「でも俺は……お前のことを、ここに一人置いていきたくない」
凪沙は彼の顔を見た。
まっすぐな目だった。
夢の中でもいつもこういう目をしていた。
嘘をつけない人の目だ、と子どもの頃から思っていた。
「行く。一人の方が怖い」
ノクスが少し目を丸くした。
それからふっと、口元が緩んだ。
笑う手前みたいな、微妙な表情だった。
「……そうか。じゃあ、行こう」
✦ ✦ ✦
聖堂の外へ出た瞬間、凪沙は思わず足を止めた。
夜だった。でも、暗くなかった。
街が光っていた。
石造りの建物が左右に並ぶ道の上に、淡く青白い光の玉がいくつも浮かんでいる。
街灯なのだろうけれど、電気ではない。
揺れ方が違う。
水面みたいに、ゆらゆらと揺れていた。
その光の中で白い石畳が濡れたように輝いていた。
これは、魔法の灯り。
夢の中でノクスから聞いたことがあった。
でも実際に目にするのは初めてだった。
空を見上げると、たくさんの星がある。
日本で見る夜空とは比べものにならないくらい、びっしりと。
見たことのない星の並びが、頭上にどこまでも広がっていた。
「……綺麗」
気づいたら声に出ていた。
隣を歩いていたノクスが少し驚いたように凪沙を見た。
それから空を見上げて、また凪沙を見た。
「星か?」
「うん。こんなに見えるんだね」
「……王都は明るいから、もっと星が見える場所はいくらでもある」
言ってから、彼は少し間を置いた。
「見たいなら、いつか連れていく」
本人はたぶん深く考えていないような口ぶりだったけれど、凪沙の胸はなぜかじんわりした。
「うん、行きたい」
そう答えると、ノクスはまた少し黙った。
でも今度は、悪い沈黙ではなかった。
✦ ✦ ✦
王宮は聖堂から歩いて少しのところにあった。
近づくにつれて、その大きさが分かってくる。
白い石でできた高い壁。
上に向かって伸びる尖塔。
門のところには鎧を纏った衛兵が二人立っていてノクスの顔を見ると深く頭を下げた。
凪沙はそこで初めて実感した。この人は本当に王子なのだと。
中に入ると廊下が続いていた。
天井が高くて、壁には大きな絵画が飾られている。
燭台の炎が揺れて、磨かれた石の床に二人の影を映していた。
歩きながら、ノクスが小声で言った。
「今夜は遅いから、使用人には最小限しか知らせていない。明日、改めて色々と話す」
「うん」
「部屋を用意してある。鍵もかかる。何か困ったことがあったら……」
少し考えるように間を置いてから続けた。
「俺の部屋は隣だ。声を出せば聞こえる」
「隣?」
「客室がそこしか空いていなかった。嫌なら別の部屋を……」
「嫌じゃないよ」
凪沙が答えると、ノクスはまた少し黙った。
耳がほんのわずかだけ赤くなっているように見えたけれど、松明の光のせいかもしれない。
案内された部屋は凪沙が想像していたよりずっと広かった。
天蓋付きのベッド。
窓の外には中庭が見えて、魔法の灯りがいくつか揺れていた。
「何か必要なものがあれば言ってくれ。明日、ちゃんとした服も用意する」
言いながらノクスはまた凪沙のパジャマ姿に視線を落とした。
今度は少し困ったような顔をした。
「……その格好で連れてきてしまって悪かった」
「鏡が勝手に光ったんだもん。あなたのせいではないよ」
ノクスは少しの間凪沙を見て、それから笑った。
さっきの笑う手前みたいな表情より、ちゃんと笑っていた。
「……そうだな」
扉に向かいかけて、ノクスは振り返った。
「凪沙」
名前を呼ばれた。
夢の中で何度も呼ばれた名前なのに現実の声で呼ばれると、どこか違う響きがした。
「来てくれて、よかった」
それだけ言って、彼は部屋を出ていった。
静かになった部屋で、凪沙はベッドの端に腰を下ろした。
手の中の鏡を見る。
銀色の蓋が、窓から差し込む星明かりを受けてうっすらと光っていた。
「…おばあちゃん。私、本当に来ちゃったよ」
答えはない。
でも不思議と祖母がどこかで微笑んでいる気がした。
知っていたよ、と。
ずっと前から知っていたよ、と。
窓の外では見たことのない星たちが静かに輝いていた。




