第一章 春の遺品
春の午後は、静かすぎた。
カーテンを開けても日差しは柔らかく、窓の外では桜がまだ数輪だけ残って揺れていた。
もう四月の半ばだというのに、今年の春は長い。
それとも、時間の感覚がどこかおかしくなっているだけだろうか。
牧浦凪沙は段ボール箱を抱えたまま、祖母の部屋の入り口に立ち尽くしていた。
祖母が亡くなってから、もう一か月が経った。
頭では分かっていた。
告別式も終わり、初七日も四十九日も過ぎたというのに、ふとした瞬間に手が動いてしまう。
電話しようと思って、おばあちゃんなら分かってくれるかもしれないと思って。
そしてすぐに気づいて、手を止める。
その繰り返しが、この一か月ずっと続いていた。
「凪沙、そっちの引き出しもお願いできる?」
母の声が廊下から飛んできた。
「うん、今やる」
返事をして、ようやく足が動いた。
祖母の部屋はこじんまりとしていたが、長年の暮らしで満ちていた。
整然と並んだ本棚。古い裁縫箱。
押し入れの奥に仕舞われた、誰かへの手紙の束。
凪沙は一つ一つを手に取るたびに、少しだけ時間を止めてしまった。
捨てられないのだ。
何もかもが、祖母の手の温度を持っているような気がして。
文机の引き出しを開けると整理された細かなものたちが並んでいた。
古い切手。読みかけの文庫本。メモ帳。
そして――
その時、引き出しの奥に何かを見つけて凪沙の指が思わず止まった。
小さな、銀色の鏡があった。
手のひらに収まるほどのコンパクトミラーだった。
銀細工の蓋には精緻な模様が刻まれている。
上が細く、下へ向かうにつれてふっくらと丸みを帯びた涙の形。
雨粒でも雫でもなく、涙としか呼びようのない形だった。
不思議なことに手に取った瞬間から懐かしかった。
見たことがある。
いつ? どこで? 思い出そうとすると霧の中へ沈んでいく。
けれど確かに、この鏡を知っている気がした。
幼い頃から何度も夢に見たような、そんな感覚。
祖母はこの鏡を、いつも引き出しの奥に仕舞っていた。
見せびらかすわけでも、飾るわけでもなく、ただそっと、大切なものとして。
凪沙が子どもの頃に「見せて」とねだると、 祖母は微笑みながら少しだけ開いて見せてくれた。
けれど「開けてみて」とは言わなかった。
「その子はね、いつかあなたのものになるよ」
そう言っていた。
あの頃の凪沙はその言葉の意味をよく分からないまま、ただ銀色の美しさにうっとりしていた。
✦ ✦ ✦
遺言書には、はっきりと書かれていた。
――銀色のコンパクトミラーを孫の凪沙へ。
母は不思議そうな顔をしていた。
祖母の遺品の中では地味で、金銭的な価値もおそらくそれほどでもない。
なぜわざわざ遺言に書いたのか、母には分からないようだった。
けれど凪沙には、少しだけ分かる気がした。
祖母は凪沙の夢の話を、いつも真剣に聞いてくれた唯一の人だった。
幼い頃から、凪沙は不思議な夢を見ていた。
夢の中には、同じ年ごろの男の子が現れた。
銀色の髪と、深い蒼の瞳を持つ見たこともない顔立ちの子どもだった。
初めて会った夜のことは今でも覚えている。
夢の中で凪沙は草の上に座っていた。
どこの国なのか分からない広い野原だった。
空には見たことのない星の並びがあって、風がやわらかく吹いていた。
そこに、その子はいた。
凪沙を見て、少し驚いた顔をして、それからぶっきらぼうに言った。
「……誰だ、お前」
怖い子だと思った。
でも声は思ったより柔らかかった。
「凪沙…牧浦凪沙。あなたは?」
「……ノクス」
それだけ言って彼は少し離れたところに座った。
話しかけてくる様子はなかった。
でも、行ってしまいもしなかった。
それが始まりだった。
夢のたびに二人は会った。
最初はぎこちなかった。
でもいつの間にか他愛ないことを話すようになっていた。
好きな食べ物。空の色。今日あったこと。
「お前の世界には魔法がないのか」
「ないよ。あなたの世界にはあるの?」
「ある。当たり前だろ」
「すごいね。使えるの?」
「……少しだけ」
少しというわりに、その夜彼は手のひらに小さな光の玉を作って見せてくれた。
凪沙が「綺麗」と言うと、彼は照れたのか少し顔を背けた。
目が覚めると会話の内容は靄の中に沈んでいくのに、彼がそこにいたという感覚だけはいつも鮮明に残った。
凪沙が成長するにつれて、夢の中の彼も成長した。
子どもだった顔立ちがいつの間にか少年になり、そして今では凪沙より少し年上の青年になっていた。
声が低くなっても、たまに見せる不器用な優しさは変わらなかった。
母に話すと「素敵な夢ね」と笑われた。
友達には「少女漫画の読みすぎ」と言われた。
けれど祖母だけは違った。
真剣な顔で、最後まで聞いてくれた。
そして静かに微笑んだ。
「きっといつか、会えるよ」
その言葉が今も、耳の奥に残っている。
✦ ✦ ✦
最近、夢が変わった。
彼は現れなくなった。
その代わりに見えるのは、巨大な聖堂だ。
静寂に包まれた、どこか神聖な空間。
石造りの高い天井から光が差し込み、その中央に青白い光を放つ涙の形をした結晶が浮かんでいる。
美しいと思うのと同時に胸がざわつく。
そして夢の中の凪沙は、決まって手の中に鏡を持っている。
目が覚めるたびに、あの場所を知っているという確信だけが残った。
行ったことなんてない。
見たことも聞いたこともない。
それなのに。
凪沙はベッドの近くに置いていた鏡を手に取り、もう一度見つめた。
銀細工の涙型の紋章が窓から差し込む午後の光を受けて、ひっそりと輝いていた。
「……おばあちゃん」
声にならない声で呼んだ。
答えはない。
でも、この鏡は答えを知っているような気がした。
ずっと前から。
凪沙が生まれるよりもずっと前から何かを知っていて、何かを待っているような。
『きっといつか、会えるよ』
祖母の声が、もう一度だけ聞こえた気がした。
凪沙はそっと鏡を胸に抱えた。
春の午後の光の中で、銀色はほんの一瞬だけ――青白く、揺れた。
✦ ✦ ✦
鏡を受け継いでから、五日が経った。
枕元に置いて眠るようになったのは、なんとなくだった。
理由を問われても上手く答えられない。
ただ手の届くところに置いておきたかった。
その夜も凪沙はいつものように布団に入った。
夢を見るつもりはなかった。
ただ眠るだけのつもりだった。
✦ ✦ ✦
最初は、いつもの夢だと思った。
聖堂だった。
広くて天井が高くて、石造りの柱が左右にずらりと並んでいる。
どこか遠くから光が差し込んでいて、足音が吸い込まれてしまいそうなほど静かで、空気は冷たかった。
でも不思議と怖くはないと夢の中でそう思った。
この場所には何度も来ていて、来るたびに少しずつ鮮明になっていく。
最初は霧の中を歩くようだったのに、今夜は床の石畳の目地まではっきり見えた。
引き寄せられるように奥へ歩いていく。
聖堂の中央にそれはあった。
高さ一メートルほどの涙滴型の結晶。
透き通ったその内部に、月明かりを溶かしたような蒼白い光が揺れている。
まるで今この瞬間も誰かが静かに涙を流し続けているかのようだった。
「綺麗……」
思わず手を伸ばして指先が届きそうになった、
その時、手の中の鏡が光った。
「え?何で??」
気づけば手の中にあった。
いつの間に持っていたのか分からない。
夢の中だからとも思ったけれど、それにしてもおかしい。
鏡面が青白く輝いていた。
結晶と同じ色で、同じ温度で。
そして鏡が震えていた。
小さく、でも確かに。
まるで長い眠りから目覚めようとしているかのように。
すると突然、光が広がり眩しくて目を閉じた。
閉じた瞼の裏まで白く染まって、足元の感覚が消えて、自分がどこに立っているのか分からなくなって――
風が吹いた。
夢の中に、風などなかったのに。
✦ ✦ ✦
目を開けた瞬間、凪沙にははっきりと分かった。
ここは夢ではないと。
風が冷たくて石畳の硬さが足の裏に伝わってきた。
夢の中ではいつも感触がなかった。
それなのに今は、すべてがはっきりとある。
空気の匂いまで。
花のような、雨の後のような、でもどちらでもない、嗅いだことのない匂いが鼻をくすぐった。
ここは聖堂だった。
夢で見ていたのと同じ場所。
でも今は、違う。
柱の傍に松明が灯っていて、その炎が揺れていた。
壁には色鮮やかな細工が施されていて、月明かりが窓から差し込んで床に白い四角形を作っていた。
中央の涙晶は夢で見たよりも大きく、光も揺れ方も違った。
もっと静かで、もっと深くて、まるで生きているみたいに。
気づけば、凪沙は素足だった。
パジャマのままで、冷たい石畳の上に立っていた。
「どういう…こと?」
頭が全然追いつかない。
さっきまで布団の中にいて眠ったはずなのに。
いつものように夢を見ていたはずなのに。
それなのになぜか今、見知らぬ聖堂の石畳の上に立っていて、足の裏には冷たい感触があって、空気の匂いまでちゃんとある。
手の中の鏡はもう光っていなかった。
静かに閉じたまま、ただそこにあった。
「……おばあちゃん、これ」
声は聖堂の高い天井にふわりと広がって、どこかへ消えていった。
震えてはいなかった。
混乱はしているけど、不思議なほど怖くなかった。
頭の中はまだぐるぐるしている。
それでも足がすくんでいないのは、なんだかここへ来ることをずっと前から知っていたような気がするからかもしれない。
一歩、涙晶へ向かって踏み出した時だった。
背後から足音が聞こえてきた。
一人ではなくて複数の靴音が石畳を叩いて、こちらへ近づいてくる。
思ったより速くて、思ったより近くて凪沙は思わず息を止めた。
振り返った瞬間、聖堂の入り口から松明の光が流れ込んできた。
外套を纏った、騎士のような男性が二人。
その松明の光に照らされながら二人の間をすり抜けるように、もう一人が歩いてきた。
その中央に立っていた人物の月光の色をした真っ直ぐな銀髪が、松明の光の中で目に飛び込んできた。
目が合った瞬間、凪沙の心臓が跳ねた。
深い蒼の瞳。
夢の中で何度も見た、端正な顔立ち。
彼はこちらを見て足を止め、驚いたように目を見開いて、そして何かを確かめるみたいに凪沙の顔をじっと見つめた。
知っている。
この人を、知っている。
幼い頃から夢の中で、何度も何度も。
子どもだった彼が少年になって、少年が青年になって。
ずっと、会い続けてきた。
相手も動きを止めたままだった。
驚きの色が、瞬きのたびに少しずつ別の何かへ変わっていく。
凪沙にはそれが何なのか、うまく読み取れなかった。
先に口を開いたのは銀髪の青年だった。
低くて、静かな声だった。
「……もしかして」
一瞬躊躇うように間を置いてから、続けた。
「夢で会ってた子、か?」
凪沙は息を呑んだ。
彼も夢を見ていたのだ。
自分と同じように、ずっと前から。
「……うん」
声が少し掠れたけれど、それでもはっきりと答えた。
「私も、あなたの夢を見てた」
青年がもう一歩踏み出した。
松明の光の中へ入ってきて、その顔がはっきりと見えた。
夢で見ていた顔と同じで、でも夢よりずっと鮮明で少し大人で。
そして彼は、ふっと力が抜けたような顔をした。
王子様らしい張り詰めた表情が年相応の、ただの十八歳の青年のそれに変わる。
「よかった」
小さく、でも確かにそう言った。
「本当に来てくれたんだな、って……ずっと会いたいと思ってたから」
凪沙は何も言えず、ただ頷いた。
鏡が、手の中でじんわりと温かかった。




