第三十六章 追手
嵐の領域を抜けた時、四人全員がほっと息をついた。
外套が雨で濡れていて体の芯まで冷えていたけれど、それよりも無事に嵐の中心から戻れたという安堵の方が大きかった。
日が傾き始めていたが、山小屋までまだ距離がある。
先頭を歩いていたカインが、突然足を止めた。
「…誰か…来ます」
カインは剣の柄に、自然と手が伸びていた。
凪沙は周囲を見渡すと、岩場の影から人影が現れた。
一人ではない。
三人、四人と、次々に姿を現し黒い外套を纏っていて顔が見えなかった。
ノクスが庇うように凪沙の前に出た。
「結晶を渡せ」
黒い外套の一人が、低い声で言った。
凪沙は、胸に抱えた結晶を思わず強く抱きしめた。
「誰の指示だ」
ノクスの迷いのない問いに相手は答えず、代わりに距離を詰めてきた。
「カイン」
「はい」
言葉はそれだけでカインは剣を抜いた。
ノアが、凪沙の横に素早く移動した。
✦ ✦ ✦
戦いは、一瞬だった。
カインが前に出て、剣が山の冷たい空気を切った。
相手の一人が剣で受け止めると金属がぶつかる音が岩場に響いた。
凪沙はその場で動けなかった。
戦いというものを、これまで見たことがなかった。
怖さと、でも逃げてはいけないという気持ちが同時に体を満たしていた。
ノクスが横から来た一人を、素手で制した。
剣を抜かなかったのは凪沙の側を離れたくなかったからだろうと後から分かった。
「凪沙、下がれ」
ノクスに言われた通り、凪沙は一歩下がった。
でも、後ろにもう一人気配があった。
「ノクス、後ろ!」
凪沙が叫んだ瞬間、ノクスが振り返った。
後ろから来た一人と短い取っ組み合いになった。
ノクスの邪魔にならないように凪沙はまた一歩、後ろに下がろうとしたら足元が滑った。
岩が雨で濡れていたから体が傾いた。
落ちると思った瞬間、強い腕が凪沙の腕をつかんだ。
「…ノクス」
取っ組み合いの相手を振り払って、凪沙に向かって飛んでいた。
その勢いのまま、凪沙を岩から離れた場所へ引き寄せて、二人で岩場に倒れ込んだ。
ノクスが、凪沙を覆うような形で地面についた。
しばらく、二人とも動かなかった。
「……大丈夫か」
ノクスの声が、耳の近くで聞こえた。
低くて、少し荒れていた。
「うん……大丈夫。ありがとう」
凪沙は、かろうじて答えた。
ノクスの重さが肩に伝わってきた。
体が、震えていた。
その震えは自分の震えなのか、ノクスの震えなのか分からなかった。
少し離れたところで、カインの戦いが続いていた。
でも、すぐに静かになった。
「制圧しました」
カインの声が、落ち着いて聞こえた。
ノクスがゆっくりと体を起こすと、凪沙の顔を見て傷がないか確かめるように、じっと見た。
「怪我は」
「ないよ。あなたは?」
「……俺も、ない」
ノクスは凪沙の肩に手を置いたまま少し間を置いて、それから小さく息を吐いた。
張り詰めていた何かが、少しだけ解けていくような音だった。
✦ ✦ ✦
捕まえた一人に、カインが問い質した。
最初は黙っていたけれど、カインの静かな圧力に屈して、やがて口を開いた。
「……神殿の者です。ヴィクター師の指示で」
その言葉に、四人の間に重い沈黙が落ちた。
「ヴィクターが……」
ノクスの声色は怒りとも、落胆とも、どちらとも取れる声だった。
「結晶を奪う指示だったのか」
「……はい」
「なぜ」
相手は答えず、ただ目を伏せた。
その間にカインが縄で縛った。
「連れて帰りましょう。陛下に判断を仰ぐ必要があります」
✦ ✦ ✦
山小屋まで戻る道で凪沙はノクスの隣を歩いていた。
結晶は無事で、体も無事だった。
でも、心がまだ落ち着いていなかった。
「ノクス」
「うん」
「さっき、助けてくれてありがとう」
「当然のことをしたまでだ」
「当然じゃないよ。あの時、別の人と戦ってたのに」
「……凪沙が危ないと思ったら、他のことは後回しになる」
その言葉は、静かだったけれど凪沙の胸に深く刺さった。
考える前に体が動く、というノクスの性分が今日もそのまま出ていた。
凪沙はノクスの横顔を見ると、濡れた銀髪が夕暮れの光を受けていた。
「……怖かった?」
「怖かったかと聞かれれば、凪沙が落ちそうになった時が一番怖かった」
凪沙は、ノクスが自分の怖さよりも、相手の怖さを先に言える人だということを今日改めて感じた。
「私も怖かった。あなたのことが心配で」
ノクスは少し驚いたような顔をした後、口元がわずかに緩んでいた。
山の夕暮れは冷たく、でも美しかった。
二人の足音が、岩場に静かに響いていた。




