第三十二章 遠い母の声
涙晶を見つけてから、王宮には少しずつ落ち着いた日常が戻ってきた。
ノアは山の涙晶について、文献を読み続けていた。
「嵐の中心に静寂がある」という記述の意味を解こうと、何冊もの古い書物を書庫から運び込んでいた。
ノクスは、その合間に公務をこなしながら山岳地帯への遠征の計画をレグルス王と相談していた。
凪沙にできることは少なかったけれど、それでも毎日少しずつ、この世界に馴染んでいく実感があった。
✦ ✦ ✦
ある夜、凪沙は眠れずに窓辺に立っていた。
涙晶を見つけた高揚感が落ち着いてくると、その分、別の思いが浮かんできた。
母のことだった。
日本にいた頃の何気ない日常が、ふと頭に浮かんだ。
母が作る朝食の匂い。
学校帰りに見た夕焼け。
友達との他愛ない会話。
それらが、今はとても遠いものに感じられた。
「お母さん、どうしてるんだろう。私のこと心配してるのかな」
時間の流れが違うかもしれないとノクスから聞いた時、最初は安心するべきことだと思った。
母が心配していないなら、それは良いことだと。
でも今は、その「気づかれていない」という事実が別の寂しさを連れてきていた。
自分がこんなに遠くまで来て、こんなにたくさんのことを経験しているのに母にとっては、まだ何も始まっていないかもしれない。
その隔たりが急に重く感じられた。
鏡を手に取って蓋を開くと、月明かりの中で自分の顔が映っていた。
「お母さん」
声に出して呼んでみた。
答えはなかった。
それは当然だったけど、呼ばずにはいられなかった。
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翌日、凪沙はノアに時間の流れについて改めて聞いてみた。
ノアは書庫の隅で、いくつもの書物に囲まれていた。
凪沙が声をかけると、顔を上げて少し疲れた様子で微笑んだ。
「実は、少し進展がありました」
進展といったので凪沙は思わず身を乗り出した。
「本当に?」
「鏡とティアの魔力の波長を調べていて、気づいたことがあります。世界と世界の間の時間の流れはティアの力の強さに比例しているのではないか、という仮説です」
「ティアの力に……比例?」
「ティアが弱まっている今、世界の境界も薄くなっています。境界が薄くなるほど、時間の流れの差が、小さくなっているかもしれません」
凪沙は、その言葉の意味を少しずつ理解していった。
「つまり……今は、前より時間の差が、小さいかもしれない?」
「断定はできませんが、可能性としてはあります。以前の聖女様の時代は、ティアの力が今よりずっと強かったはずです。境界がそれだけ厚かったということは、世界間の時間の差も今よりずっと大きかったと考えられます。今は、その差がもう少し小さいかもしれません」
凪沙は、その話を聞いて複雑な気持ちになった。
差が小さいということは、もしかしたら母がもう自分のことを心配しているかもしれないということだった。
でも同時に、それはこちらの世界での時間が向こうの世界の時間と、もっと近くなっているということでもあった。
「ありがとう、ノアさん。教えてくれて」
「まだ仮説の段階です。確実なことが分かったら、すぐにお伝えします」
凪沙はその言葉に、少し救われた気がした。
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夕方、凪沙はノクスにそのことを話した。
ノクスはしばらく黙って聞いており、話が終わると静かに言った。
「もし、凪沙の世界でも時間が進んでいるなら……凪沙の母上が、心配しているかもしれない」
「うん」
「それは、お前にとって、つらいことだろう」
「でも、帰る方法が見つかるまで私にできることは、ここでやるべきことをやることだと思ってる」
ノクスは、凪沙の顔をじっと見た。
「強くなったな」
「そう?」
「最初に会った時より、ずっと」
その言葉に、凪沙は少し誇らしい気持ちになった。
同時に、少し寂しくもなった。
強くなった、ということは、この世界に馴染んでしまったということでもある。
それは、いいことなのか、それとも何かを失っているということなのか、まだよく分からなかった。
「ノクス」
「うん」
「お母さんに会いたいって思う気持ちと、ここにいたいって思う気持ち、両方あるの。それって、変かな」
「変じゃない。当然のことだと思う」
「……うん」
「だから、焦らなくていい。凪沙のための時間がちゃんとある」
その言葉が、凪沙の胸に静かに染み込んでいった。
窓の外で、夕暮れの光が、王都を橙色に染めていた。
凪沙は、その光景を見ながら母のことと、この世界のことを両方思った。
どちらも、本物の気持ちだった。




