第二十九章 深淵の涙
翌朝、湾は静かだった。
風が弱く、波も穏やかで、トウマはこういう日が潜るのに一番良いと言っていた。
岩場に立って、彼は手早く準備をしていた。
腰に縄を巻き、息を整えるように何度か深呼吸をしていた。
凪沙は崖の上から、湾の水面を見ていた。
鏡を握る手に、自然と力が入った。
「本当に、お願いしてもいいんでしょうか」
凪沙が小さく言うと、トウマは笑った。
「俺は、潜るのが好きなんです。それに……正直、王子殿下と聖女様のためなら悪い気はしません」
聖女様、という呼び方に凪沙は少し驚いた。
村人たちの間で、もうそう呼ばれているらしかった。
「無理はしないでください」
「分かってます。何かあれば、すぐに縄を引いてください」
トウマはそう言って、岩場から海に飛び込んだ。
水音が響いて、波紋が広がった。
✦ ✦ ✦
待つ時間が、長く感じられた。
カインが縄を持って水面を見つめ、ノアは手帳を持ったまま何度も時間を確認していた。
ノクスは何も言わずに、ただ海を見ていた。
凪沙は鏡を開いて湾を見た。
鏡面に、また景色が映っていた。
沈んだ街と、その奥の光。
今日はその光が、いつもより強く見える気がした。
「光が、強くなってる」
凪沙が言うと、ノアが駆け寄ってきた。
「トウマさんが近づいているからかもしれません。鏡が何かを感じ取っている可能性があります」
水面が、ぽこりと泡立った。
トウマが顔を出した。大きく息を吸い込んで、また潜っていった。
その繰り返しが、何度も続いた。
一度上がってくるたびに、トウマの表情が少しずつ変わっていった。
最初は探るような顔。
それが、徐々に何かを見つけたような、緊張した顔に変わっていった。
何度目に上がってきた時、トウマは大きく息を吸って、岩場まで泳いできた。
「……あり…ました」
息を切らしながら、言った。
「塔の奥の部屋に。崩れた壁の隙間から、光が見えます。近づくと、青白い光が、本当に強くて」
凪沙の心臓が、大きく跳ねた。
「取り出せそうですか」
凪沙が聞くとトウマは少し考えて、頷いた。
「隙間は狭いですが手は入りそうです。もう一度潜って、試してみます」
「危険なら、やめてください」
凪沙が言うと、トウマは少し笑った。
「ここまで来て、やめられませんよ」
トウマは大きく息を吸って、また海に潜った。
✦ ✦ ✦
今度は、待つ時間がさらに長く感じられた。
凪沙は鏡を強く握っていた。
鏡面の中で、光がさらに強くなっていくのが見えた。
何かが起きようとしている予感があった。
水面が、大きく波立った。
トウマが勢いよく顔を出した。
そして、その手には何かを抱えていた。
「上げてください!」
カインが縄を引くとトウマが岩場まで引き上げられて、息を切らしながらその手の中のものを見せた。
涙の形をした、小さな結晶だった。
聖堂のティアよりも、ずっと小さい。
手のひらに乗るくらいの大きさだった。
でも、その内部に揺れる青白い光はティアと同じ色をしていた。
誰も、何も言えなかった。
凪沙は、その結晶を見つめた。
「これが……」
ノアが、震える声で言った。
「二粒目の、女神の涙」
結晶が、ゆっくりと光を強めた。
まるで、長い眠りから目覚めたかのように。
凪沙の手の中の鏡も、それに応えるように青白く輝き始めた。
二つの光が共鳴するように、互いに強くなっていった。
「鏡が、応えてる」
凪沙が言うと、ノクスが横に来てその光景を見た。
その目に、これまで見たことのない驚きと、そして確かな希望が浮かんでいた。
「これを、聖堂に持っていけば……」
「ティアの力が補強されるかもしれません」
ノアが、興奮した声で続けた。
凪沙は、その小さな涙晶に再び目を向ける。
何百年も、ここに眠っていた。
誰にも気づかれず深い海の底で。
その存在を、今、自分たちが見つけた。
胸の中に、熱いものが広がっていった。
これは、確かに成し遂げたことだった。
世界を救える者ではなく、世界を愛せる者を鏡は選ぶ。
その言葉が、今、現実になった気がした。
✦ ✦ ✦
結晶を、丁寧に布で包んで馬車に乗せた。
トウマには村のために、十分な礼を渡すことをノクスが約束した。
トウマは「聖女様のためなら」と言って、それ以上は受け取りたがらなかったけれど、ノクスは「村の灯りのために使ってくれ」と強く言って受け取らせた。
村を出る時、あの小さな女の子がまた走ってきた。
「お姉ちゃん、また来てね!」
「うん、また来る」
凪沙は手を振った。
馬車が動き出すと村の人々が見送ってくれた。
小さな村だったけれど、温かい人たちだった。
馬車の中で凪沙は包まれた涙晶を見た。
布の隙間から、わずかに青白い光が漏れていた。
「ノクス」
「うん」
「やっと、一つ見つけられた」
「ああ」
ノクスは凪沙を見た。
その目に、安堵と、それ以上の何かがあった。
「凪沙のおかげだ」
「私だけじゃないよ。みんなで見つけたんだから」
凪沙が言うと、ノクスは少し微笑んだ。
「……そうだな」
馬車が、王都への道を進んでいった。
窓の外に、海が遠ざかっていった。
凪沙は、その海にもう一度目を向けて心の中で呟いた。
ありがとう。
誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からなかった。
海にか、女神にか、祖母にか。
でも、その感謝は確かに本物だった。




