第二十七章 水底の記憶
三日目の朝、宿を出る頃には空気がさらに変わっていた。
潮の匂いが濃くなって、風が湿った重さを持っていた。
村人たちは漁の準備をしていて、馬車が通り過ぎる時、何人かが手を止めてこちらを見た。
王家の紋章をつけた馬車を見るのは、この辺りでは珍しいのだろう。
「ヴェルナがあったとされる場所まで、もう少しだ」
ノクスは地図を広げて、ノアと一緒に道を確認していた。
「文献によると、海岸から少し入った湾の辺りだと思われます。潮が引く時間帯に、何か見えることがあるという、地元の言い伝えも残っているようです」
そう言いながらノアは手帳を見ていた。
その手帳には、いくつもの矢印と書き込みがあった。
✦ ✦ ✦
馬車を降りて、最後は徒歩で岬を進んだ。
風が強くなっていき、崖の上から見下ろすと入り組んだ湾が広がっていた。
波が岩にぶつかって、白い泡を散らしていた。
凪沙は手の中の鏡を強く握った。
出発の時から、何かを感じていた。
理由は分からない。
でも近づくにつれて、鏡が温かくなっていくのが分かった。
「鏡が、温かい」
凪沙が言うと、ノアが目を輝かせて駆け寄ってきた。
「見せてください」
凪沙は鏡を開くと、鏡面が淡く青白く輝いていた。
聖堂でティアの前に立った時と、同じ輝き方だった。
「反応している…ということは、やはりここに何かがあります」
ノクスとカインも近づいてきて、四人で鏡を囲むように立った。
「凪沙、湾の方を見てみてくれ」
ノクスの言葉に、凪沙は崖の上から鏡を持ったまま湾を見た。
鏡面に、何かが映った。
最初は、空の反射だと思った。
でも違った。
鏡面の中に湾の景色とは違う何かが、ゆっくりと浮かび上がってきた。
水の中の、建物だった。
崩れかけた石造りの塔。
アーチ状の門。
かつてそこにあった街の輪郭が鏡の中にだけ、はっきりと映っていた。
「……これ」
凪沙の声が、震えた。
「見えるのか」
ノクスが凪沙の手元を覗き込んだが、その顔には何も映っていないようだった。
「俺には、ただの鏡面にしか見えない」
「私には……街が見える。水の中に沈んだ街」
「それは鏡の持ち主にだけ見えるということかもしれません。境界を映す力が、ここで強く働いているんです」
ノアに言われ、凪沙は鏡の中の景色をもう一度見た。
崩れた塔の向こうに何か光るものがあった。
小さくて、遠くて、はっきりとは見えない。
でも、ティアと同じ色の青白い光だった。
「光が見える。塔のもっと奥に」
「それが、涙晶かもしれません」
ノアの声が、興奮で少し高くなった。
「水に潜って確認する必要があります。ただ……この深さだと簡単ではないかもしれません」
凪沙は鏡から目を離して湾を見た。
波が、相変わらず岩にぶつかっていた。
水の中に本当に街が沈んでいるなんて、目で見ただけでは分からない。
鏡だけが、それを教えてくれた。
「どうやって確認するの?」
「この辺りの漁村に潜水に詳しい人がいるかもしれません。明日、村で聞いてみましょう」
「そうだな。今日は無理はしない。確認をしないといけないからな」
ノクスと目が合い凪沙は頷いた。
でも鏡を握る手は、まだ離せなかった。
鏡の中の景色は、まだそこにあった。
沈んだ街と、その奥の光が。
✦ ✦ ✦
その夜、凪沙は宿の部屋で鏡をもう一度開いた。
もう光景は見えなかった。
鏡面には、いつもと同じ自分の顔が映っているだけだった。
でも確かに見た、あの景色は本物だった。
縁の文様に目をやると、また少し増えているような気がした。
気のせいかもしれない。
でも、近づくほどに鏡が何かを伝えようとしているのは確かだった。
「おばあちゃんは、ここに来たのかな。アルタイ様と一緒に…今の私とノクスのように」
祖母がここに来たかどうかは分からない。
でも、鏡を通して何か繋がっているような感覚があった。
何百年も前から続く何かの続きをなぞっているような。
すると扉がノックされ、入ってきたのはノクスだった。
こうやってノクスが尋ねてきて、一緒に話す時間があると心の中にある何かが少しずつだけど整理されていく。
「大丈夫か」
「うん。ちょっと不思議な気持ちで」
「今日、見えたものは……どうだった。頭の中で、まだ残っているか」
「怖くはなかった。なんだか懐かしい感じがしたの。変だよね、初めて見たのに」
「変じゃない。鏡が選んだ人間にはそういう感覚が訪れるものなのかもしれない。世界の方が凪沙を覚えているような」
凪沙はその言葉を、しばらく胸の中で転がした。
世界の方が、自分を覚えている。
それはきっと、祖母が歩いた道の記憶がどこかで自分にも流れ込んでいるということなのだろう。
「ノクス」
「うん」
「ここまで一緒に来てくれて、ありがとう」
「俺は義務感とか、そういうのじゃ……」
ノクスは言葉を選びかねたように一度止まった。
小さく咳払いをして、もう一度口を開いた。
「来たかったんだ。凪沙と一緒に」
言ってしまった後、ノクスは自分でも驚いたような顔をした。
視線は気まずそうに窓の外へ逃げたけれど、それでもさっきまでよりは、まっすぐな声だった。
凪沙はその不器用な強さに、また少し心を寄せられる気がした。
窓の外で、波の音がずっと続いていた。




