第二十六章 祖父の話
旅の二日目の昼過ぎに丘を越えた時、海が見えたことで凪沙は思わず声を上げた。
丘の向こうに水平線まで続く灰青色の広がっている。
日本で見た海と同じもののはずなのに全然違って見えた。
空の色が違うからかもしれない。
光の差し方が違うからかもしれない。
でもそれよりも、この世界でここまで来たという感覚が同じ海を別のものに見せていた。
「……すごい」
それしか言えなかった。
馬車の窓から身を乗り出して、凪沙はしばらく海を見ていた。
ノクスがそれを見て、御者に少し速度を落とすよう声をかけてくれた。
「海を見るのは初めてか?」
「日本でも見たことはあるけど……なんか、違う」
「どう違う」
「もっと向こうに何かある気がする。日本の海は向こうに別の国がある海だった。でもここの海は……その先に、もう世界がない気がして」
「この海の向こうには何もないと言われている。昔の航海者が端まで行こうとしたが、戻ってこなかったという話が残っている」
「そんな話が?」
「だから、この海は祈りを捧げる海でもある。ここに来て手を合わせると、どこかへ消えた人の魂に届く、という言い伝えがあって」
凪沙は改めて海を見た。
波がゆっくりと砂浜に打ち寄せては返っていく。
その繰り返しが、遠くからでも分かった。
✦ ✦ ✦
その夜の宿は、海沿いの小さな漁村にあった。
建物の隙間から潮の匂いが入ってきて、波の音が遠く聞こえた。
凪沙は部屋に荷物を置いてから、宿の外に出た。
海が、暮れかけた空の下に広がっている。
しばらく一人で見ていると後ろからノクスが来て凪沙の隣に並んで、同じ海を見た。
しばらく、波の音だけが続いた。
「ノクス」
「うん」
「アルタイル様のこと、もう少し聞いてもいい?」
「……何が聞きたい」
「どんな人だったのか。ノクスが知っている範囲で」
波が砂浜に打ち寄せ、ノクスは少しの間…水平線を見ていた。
「俺が会った時には、もう老いていた。あまり外には出なくて書斎にいることが多かった。でも、話しかけると目が温かくなる人だった」
「目が、温かくなる?」
「普段は、どこかが遠くにある人みたいな目をしていた。でも子どもの俺が話しかけると、ぱっと戻ってくるような感じがした。焦点がこちらに合う感じ」
凪沙はその言葉を、ゆっくりと飲み込んだ。
どこかが遠くにある人みたいな目。
遠くというのが、どこを指しているか、なんとなく分かった。
「俺が鏡の聖女のことを聞いたのは……確か、十歳の頃だった」
「ノクスから聞いたの?」
「あぁ、そうだ。書斎で祖父が絵を見ていたんだ。あれは肖像画だった。額に入っていない布に描かれた小さな絵。こっそり覗くと、黒い髪の若い女性の絵だった」
「もしかして……おばあちゃんの絵」
「今となっては、そう思う。でもその時は知らなかった。誰の絵か聞くと祖父は少し驚いた顔をして……それから静かに笑った」
波の音が、少し大きくなった。
潮が満ちてきているのかもしれない。
「『とても大切な人だよ』と、それだけ言った。もっと聞こうとすると『いつかお前にも分かる日が来る』と言って、また絵に目を戻した」
「……そっか」
凪沙は、海を見た。
暗くなってきた水平線の向こうに何があるのか分からない。
でも、見ていると何かが伝わってくる気がした。
ここに来た人たちが残した思いのようなものが。
「ノクスは……アルタイル様をどう思ってた?」
「尊敬していた。今もしている」
それは迷いのない答えだった。
「でも、ずっと抱えていたものが重すぎたとも思う。誰かを愛したまま帰れなくなった人をずっと待ち続けるのは……どれほど辛かっただろうと」
凪沙はノクスを見た。
その横顔に何か複雑なものが混じっており、尊敬と哀れみと、そしてもっと別の何かが。
「ノクスは、そうなりたくないって思ってる?」
凪沙は思い切って聞いた。
ノクスはしばらく答えなかった。
波が来て、返っていく。
また来て、また返っていく。
「……なりたくないとは思っている。でも祖父を見ていて一つだけ分かったことがある」
「それは、何?」
「好きになることを止められる人間はいない。どれほど賢くても、どれほど覚悟を決めていても」
その言葉は海の音の中に溶けていくように、静かに落ちた。
凪沙は、何も言えなかった。
その言葉の意味を、問い返す勇気がなかった。
でも胸の中が、波のように揺れていた。
二人でしばらく、暮れていく海を見ていた。
空が紫色になって、一番星が瞬き始めた。
「寒くなってきた。中に入ろう」
ノクスが言うと、凪沙は頷いた。
宿の中に入る前に、もう一度だけ海を振り返った。
暗くなった水面が、遠くで光を反射してきらきらしていた。
おばあちゃんも、こんな夜があったの?
心の中の問いに答えは返ってこなかった。
でも、波の音が少しだけ優しく聞こえた気がした。




