第二十五章 知らない景色
出発の朝は、薄い霧が王都を包んでいた。
馬車に乗り込む頃には霧も晴れて、空は澄んだ青になっていた。
今回は荷馬車も一台少なく、見送りの人も最小限だった。
セシリアだけが門のところに立っていて、凪沙の手を取って「気をつけて」と言った。
その手が、いつもより少し冷たかった。
馬車が走り出すと、王都の白い建物が少しずつ遠ざかっていった。
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王都を出てからしばらくは、セントリアへ向かった時と同じような道だった。
緑の畑が広がり、農業魔法で育てられた作物が、季節を問わず色とりどりに実っていた。
でも、昼を過ぎた頃から、景色が変わってきた。
畑が減って、代わりに低い丘が連なるようになった。
木々の種類も変わって、葉の色が少し濃くなった。
空気も、湿り気を帯びてきた気がした。
「海に、近づいてるってこと?」
凪沙が窓の外を見ながら聞くと、ノクスが頷いた。
「ああ。この先は王国でも人があまり住んでいない地域だ」
「住んでない?」
「土地が、農業に向いていない。塩分を含んだ風が強くて、作物が育ちにくい。漁村が点々とあるくらいだ」
凪沙は、窓の外の景色をもう一度見た。
丘の上に、ぽつぽつと小さな家が見える。
それぞれが、少し離れて建っていた。
寂しいというより、静かな場所だと感じた。
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昼食は、街道沿いの小さな広場で取った。
馬車を降りて、皆で持ってきた包みを広げた。
パンと、干した肉と、果物。
簡素な食事だったけれど、外の空気の中で食べるといつもより美味しく感じた。
ノアは食べながらも手帳を開いていて、カインに「食べてから書け」と言われていた。
ノアは「分かりました」と言いながら、結局食べる手と書く手を交互に動かしていた。
「ノアさんって、本当に休まないんですね」
凪沙が笑いながら言うと、ノアは少し恥ずかしそうな顔をした。
「考えていることを忘れたくないので。後で思い出そうとすると、時間がかかってしまうんです」
「効率的、ってことですね」
「……そう言われると、なんだか格好良く聞こえます」
ノアが本当に嬉しそうな顔をしたので、凪沙はまた笑った。
少し離れたところで、ノクスとカインが何かを話していた。
地図を広げて、今後の道のりを確認しているようだった。
二人とも真剣な顔をしていたけれど、時々ノクスが何か言うとカインが小さく笑う場面もあった。
「カインさんって、笑うんですね」
凪沙が言うと、ノアが頷いた。
「殿下の前でだけです。子どもの頃からそうですよ」
「そうなんですね」
凪沙はその二人を見た。
地図を見ながら、何気ない言葉を交わしている。
長い時間を共に過ごしてきた人たちの距離感が、そこにあった。
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午後、馬車が小さな川を渡る時、橋の上で少し止まった。
荷馬車の車輪が何かに引っかかったらしく、カインとノクスが降りて確認することになった。
凪沙も外に出てみると川の水は澄んでいて、底の石まで見えた。
流れの音が、静かな景色の中に心地よく響いていた。
橋の欄干に手をかけて、凪沙は川を見下ろした。
「綺麗だね」
独り言のように言うとノクスが隣に来た。
どうやら荷馬車の確認を終えたらしい。
「ここは、昔よく来た」
「ここに?」
「父上が視察でこの先の村まで来る時、何度か同行した。この橋で、よく休憩した」
ノクスは欄干に手をかけて、川を見た。
その目が、少し遠くを見ているようだった。
「子どもの頃は、この川に石を投げて誰が一番遠くまで飛ばせるか競っていた」
「カインさんと?」
「ああ」
「ノクス、勝ってた?」
「……負けていた」
凪沙は思わず笑った。
「ノクスが負けるところ、想像できない」
「カインは何でも俺より上手かった。剣も、馬術も、石投げも」
「悔しかった?」
「悔しかった。でも……」
ノクスは懐かしむように笑顔を見せた
「悔しいから頑張った。今思えば、それで良かったんだと思う」
凪沙はその笑顔を見て、胸の中が温かくなった。
子どもの頃のノクスを、もっと知りたいと思った。
石を投げて悔しがっている、小さなノクスを。
夢の中で会ったことはあるけれど王子として頑張っている姿は夢の中では見れなかったから。
「今やったら、どうなるかな」
凪沙が言うと、ノクスは目を丸くした。
「……今?」
「うん。やってみない?」
ノクスは少し考えて、それから川岸に向かって歩き出した。
凪沙もついていった。
後ろでカインが「何をしているんですか」と呆れた声を出したけれど、ノアは興味深そうに手帳を持って近づいてきた。
石を拾って、川に向かって投げる。
ノクスの石は綺麗な弧を描いて、遠くの水面に着水した。
凪沙の石は、思ったより近くに落ちた。
「全然届かない」
「腕の振り方が違う。もっと低く投げるんだ」
ノクスが教えてくれて凪沙は何度か試したら少しずつ距離が伸びた。
それでもノクスには敵わなかったけれど、楽しかった。
カインが結局、見ていられなくなったのか、自分も石を拾って投げた。
一番遠くまで飛んだ。
「……相変わらずだな」
ノクスが少し悔しそうに言うと、カインは珍しく口元を緩めた。
ノアも一つ投げて、川にぽちゃんと落ちた。
ノアは「水切りの理論については詳しいんですが」と言いながら、もう一つ投げて、また近くに落ちたので皆で笑った。
笑い声が、静かな川辺に響いた。
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その夜、街道沿いの小さな宿に泊まった。
セントリアの宿よりも、ずっと簡素な作りだった。
でも暖炉の火が温かくて、出された食事も素朴で美味しかった。
夕食の後、凪沙はノクスと一緒に廊下の窓から外を見た。
空気が澄んでいるからだろうか星が王都よりもさらに多く見えた。
「明日も、長い道のりになる」
「うん」
「……今日は、楽しかった」
凪沙は少し驚いて、ノクスを見た。
「石投げ?」
「それも。お前と、こうして旅をしていることも」
ノクスは窓の外、星空を見た。
「ティアのことを忘れたわけじゃない。でも、今日は……久しぶりに、ただ楽しいと思えた」
凪沙は、その言葉を胸に刻んだ。
ノクスにとって、楽しいという感情がどれほど貴重なものか知っている。
だからこそ、その言葉が嬉しかった。
「私も、楽しかった」
「……そうか」
ノクスは少し微笑んで、おやすみを言って泊まる部屋に入って行った。
凪沙は窓辺に立って、もう一度星を見た。
手の中の鏡を握ると、かすかに温かかった。
明日も、新しい景色が見られる。
その先に何があるのか分からない。
でも、今は、それが怖さよりも楽しみとして感じられた。




