第二十四章 鏡の声
ヴェルナへの出発は、五日後と決まった。
その五日間、王宮は表向き静かだったが準備は確実に進んでいた。
荷物の手配、馬車の整備、道中の宿の確保。
すべてがノクスとカインの間で、必要最小限の人数だけを通して進められた。
凪沙にできることは、あまり多くなかった。
荷物をまとめることと、鏡を持っていくことだけだった。
でも、その「待つ」時間の中で凪沙は鏡を眺めることが増えた。
✦ ✦ ✦
出発前日の夜、凪沙は部屋で鏡を手に取った。
蓋を開いて、鏡面を見た。
いつもと同じ、自分の顔が映っている。
でも縁に目をやった時、凪沙は思わず息を止めた。
文様が、増えていたから。
以前見た時は縁の一部にだけ、細かい文字のような文様があった。
でも今は、まるで何かが書き加えられたかのように縁全体に広がっていた。
凪沙は鏡を月明かりの下に持っていって、もう一度よく見た。
文様は、確かに増えている。
でも、誰かが新しく刻んだわけではなく古さは変わらない。
最初からそこにあったのに、今まで見えなかっただけという感じがした。
「どうして、今になって」
翌日、ノアにそのことを話すとノアは目を輝かせた。
「見えるようになったということは……鏡が、今の状況に反応しているのかもしれません」
「反応?」
「『鏡だけが道を示す』という一節を覚えていますか。鏡は目的地に近づくほど、より多くの情報を見せるのかもしれません。今、私たちはヴェルナへ向かおうとしている。鏡がそれを感じ取っているとしたら」
凪沙は銀色の蓋に刻まれた増えた文様に再度目を向けた。
「読めるようになる、ってこと?」
「まだ分かりません。でも可能性はあります」
ノアは手帳に何かを書き込みながら、続けた。
「もし鏡が、ヴェルナに近づくにつれてさらに何かを見せてくれるなら……それこそがルナリアの言う『道を示す』ということなのかもしれません」
✦ ✦ ✦
夜、荷物の最終確認を終えた後、凪沙はもう一度部屋で鏡を見た。
窓の外には、月が出ていた。
雲がゆっくりと流れていて、月明かりが部屋に入ったり、消えたりしていた。
その光の中で鏡の縁の文様が、かすかに浮かび上がって見えた。
凪沙は、その文様にそっと指を這わせた。
読めない。でも確かにそこにある。
何かを伝えようとしている、何かの形が。
おばあちゃんは、これを見たのかな。
祖母がルクセリアにいた頃、鏡はどんな姿をしていたのだろう。
今と同じだったのか?それとも、もっと少ない文様だったのか。
祖母が見た景色と、今自分が見ている景色はどれくらい重なっているのだろう。
扉が、静かにノックされた。
「凪沙、入ってもいいか」
ノクスだったので凪沙が「いいよ」と答えると扉が開いた。
ノクスは部屋に入ってきて、凪沙の手の中の鏡に目をやった。
「それが、ノアの言っていた文様か」
「うん。見て」
凪沙は鏡を差し出した。
ノクスは少し身を乗り出して、縁を見た。
月明かりの中で、文様がうっすらと光っていた。
「……増えている、というのは本当だったんだな」
ノクスの声には緊張と、それでも隠せない期待が混じっていた。
「明日、出発だね」
「ああ」
ノクスは鏡から視線を上げて、凪沙を見た。
「今回は、セントリアより遠い。何があるか正直に言えば、俺にも予測できない部分が多い」
「うん」
「だから……」
ノクスは少し言葉を探した。
「何かあったら、すぐに俺を呼べ。一人で何かをしようとするな」
凪沙は、思わず笑みがこぼれた。
「分かってる。前にも言われたから」
「……大事なことだから、何度でも言う」
ノクスは真剣な顔で言った。
その真剣さが、少し愛おしいと凪沙は思った。
「ノクス」
「……何だ」
「ありがとう。色々、考えてくれて」
ノクスは少し黙ったあと、ふと窓の外に視線を移した。
月が、雲の間からまた顔を出していた。
「……俺は、ただ」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「お前がここにいる間は、ずっと笑っていてほしいと思っている。それだけだ」
凪沙はその言葉からノクスのすべてが詰まっている気がしたので、しばらく胸の中で受け止めた。
「うん」
ノクスは少し微笑んで、扉に向かった。
「おやすみ、凪沙」
「おやすみ、ノクス」
扉が閉まると、凪沙は鏡をもう一度見た。
縁の文様が、月明かりの中で静かに光っていた。
明日から、新しい場所へ。
怖さはあった。
でも、それ以上に、知りたい気持ちが強かった。
祖母の歩いた道の続きを自分の足で歩いていく。
その先に何があるのか、まだ分からない。
でも、一人ではない。
凪沙は鏡を枕元に置いて、布団に入った。
窓の外で、月が静かに輝いていた。




