第二十三章 信じるということ
翌朝、王宮の空気は表向き何も変わっていなかった。
ただ、中庭の木々の葉が少しずつ色づいてきているのに、最近気づいていた。
夏の濃い緑が、じわじわとオレンジや黄に変わっていく。
ルクセリアに来て、もう三か月以上が経っていた。
秋が、足音もなく近づいていた。
使用人たちは普段と同じように働き、廊下には朝の光が同じように差し込んでいた。
朝食の席には、色んな種類のあるパンとルクセリアの野菜を使った温かいスープが並んだ。
何も変わっていないはずなのに、凪沙はその「普段通り」を少し違う目で見てしまっていた。
パンを運んできた使用人の女性に、思わず目をやってしまう。
優しい笑顔で「お召し物はいかがでしたか」と聞いてくれる、いつも通りの人。
この人かもしれない、なんて考えること自体が何かを汚しているような気がして凪沙はすぐに目を伏せた。
考えすぎだと分かっている。
でも、一度浮かんでしまった疑いは簡単には消えなかった。
✦ ✦ ✦
朝食の後、ノクスが部屋を訪ねてきた。
いつもより少し早い時間だった。
「父上から、正式に許可が出た」
ノクスの静かな声が緊張が滲んでいるような感じに思えた。
「ヴェルナへの調査だが、西の海岸沿いまで馬車で三日ほどかかる」
「三日……」
セントリアより、もっと遠い。
凪沙は窓の外に目をやった。
王都の街は、いつもと同じように朝の光の中にあった。
でもその向こうに、見たこともない海があるのだと思うと急に世界が広がったような感覚があった。
「準備には、しばらく時間がかかる。人選も慎重にする。今回も信頼できる者だけで動く」
その言葉の選び方に、凪沙は昨夜の謁見の重さを感じた。
信頼できる者だけ。
それは、信頼できない者がいるかもしれないということの裏返しだった。
「カインさんと、ノアさんは?」
「もちろん来る」
「ジブリールは?」
「セントリアより遠い。聖堂の仕事を長く離れることになる。それに……」
ノクスは少し言葉を濁した。
「ジブリールは聖堂で働いている。ヴィクターと、関わりがないとは言えない」
「ジブリールが、情報を流してるってこと?」
「そう言っているわけじゃない」
ノクスは慌てたように言った。
「ただ、本人の知らないところで何かが伝わる可能性はある。聖堂で働いている以上、誰がどこにいるか、何気ない会話から伝わってしまうこともある」
凪沙はジブリールの明るい笑顔が、頭に浮かんだ。
あの子が、誰かに何かを伝えるなんて、想像もできなかった。
でも、ノクスの言うことも分かった。
悪意がなくても伝わってしまうことはある。
「……ジブリールには、言わないの?」
「言わない方がジブリールのためだ。知らなければ誰かに聞かれても、答えられない。それが彼女を守ることにもなる」
凪沙はその言葉の中に、ノクスの優しさと同時に重さを感じた。
誰かを信じたいのに、信じることで誰かを危険にさらしてしまうかもしれない。
その板挟みの中で、ノクスはずっと判断を下している。
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昼過ぎ、凪沙は中庭でノアと会った。
ノアは手帳を広げて、ヴェルナまでの道のりについて調べていた。
地図を指でたどりながら、何かをつぶやいている。
「ノアさんは、王宮の中の目についてどう思いますか?」
凪沙が聞くと、ノアは手帳から顔を上げた。
眼鏡の奥の目が、いつもより少し陰ってい
た。
「正直、考えたくないです」
意外なほど、率直な答えだった。
「私は、ここで育ちました。書庫の本も、廊下も、使用人の人たちの顔も全部知っています。その中に……誰かがいるかもしれないというのは」
ノアは言葉を切って、また地図に目を落とした。
「ただ、考えないわけにもいきません。だから、できることをやります。調査を進めて、できるだけ早く答えに近づく。それが、今の私にできることなので」
凪沙はその横顔を見た。
普段は研究のことばかりで周りが見えなくなる人だけれど、今は確かに何かと向き合っている人の顔をしていた。
「ノアさんも、不安なんですね」
「……そうですね。でも不安だからこそ、調べることに集中できます。手を動かしていれば、考えすぎずに済むので」
凪沙は、その答えがノアらしくて、胸の中があたたかくなった。
✦ ✦ ✦
夕方、凪沙はカインと中庭を歩いた。
カインは普段通り、無言で隣にいた。
でも今日は、その無言が少し違って感じられた。
周囲に視線を配る回数が、いつもより多かった。
「カインさんも見回りの時、いつもこうしてるのですか?」
「ええ」
「今日は……いつもより、警戒してますよね」
カインは少しの間答えなかったが、やがて静かに言った。
「殿下から聞きましたか」
「うん」
「……正直に言えば誰を信じればいいのか、私にも分かりません」
意外な言葉だった。
カインがそんな弱さを見せるのは、初めてだった。
「でも、分からないからこそ確かなものを守ります。殿下のことと、あなたのこと。それだけは、揺るぎません」
その言葉はぶっきらぼうだったけれど、まっすぐだった。
凪沙はその言葉に、少し救われた気がした。
誰も信じられない、という不安の中でも確かなものはある。
カインは、それを言葉にしてくれた。
「ありがとう、カインさん」
「礼を言われることでは」
「言わせて」
凪沙が言うとカインは少し黙って、それから小さく頷いた。
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夜、凪沙は部屋の窓辺に立って王都の灯りを見ていた。
魔法の灯りが、街のあちこちで揺れている。
その光の中に優しい人たちが、それぞれの夜を過ごしている。
その誰かが、もしかしたら。
そう考えてしまう自分が、少し嫌だった。
「凪沙、入っていいか」
扉のノック音と聞こえてきた声はノクスだった。
凪沙が「うん」と答えると、ノクスは部屋に入ってきて窓辺の隣に立った。
しばらく、二人で同じ夜景を見ていた。
「……今日、色々考えただろ」
ノクスの言葉に凪沙は少し驚いた。
「分かるの?」
「お前の顔、見れば分かる」
さらりと言われて、凪沙は少し照れた。
「使用人の人たちのこと、考えちゃって。優しくしてくれる人たちなのに、その中に誰かがいるかもしれないって思うと……なんか、嫌な気持ちになる」
「俺も同じだ。子どもの頃から知ってる顔ばかりだ。その中の誰かを疑うのは……正直、つらい」
その言葉は、昨夜の廊下で見せた苦しそうな表情と繋がっていた。
凪沙はその苦しさを、少しでも分かりたいと思った。
「でも、疑うことと信じることは両立できると思っている」
「両立……?」
「全員を信じることはできない。今は、できない。でも確かに信じられる人もいる。その人たちを、ちゃんと信じる。それでいいんじゃないかと思う」
凪沙は、カインの言葉を思い出した。
確かなものを守る、という言葉を。
ノクスとカインは幼なじみということもあるかもしれないが、似たことを考えているのかもしれない。
「ノクスは、誰を信じてるの?」
「父上と、母上。カイン。ノア。……それから凪沙だ」
短く、でもはっきりと言った。
凪沙の胸の中で、何かがじんわりと広がった。
鏡がそこにないのに、同じような感覚があった。
「私も、ノクスのこと信じてる」
凪沙が言うと、ノクスは少しだけ口元を緩めた。
窓の外で、王都の灯りが、いつものように揺れていた。
靄は、まだ晴れていない。
でもその中で確かなものが一つ、また一つと増えていく気がした。




