第二十二章 王宮の中の目
謁見の間は、いつもより灯りが少なかった。
壁際に並ぶ燭台のうち、半分ほどしか火が点いていない。
広い部屋の中央に、レグルス王とセシリアが立っていた。
騎士たちの姿はどこにもなく赤い絨毯の上を歩く足音だけが、やけに大きく響いた。
凪沙はノクスとノアと並んで、王の前に立った。
普段の謁見とは違う。
儀礼のための場ではなく、何かを確かめるための場だと空気だけで分かった。
レグルス王は玉座に座らなかった。
テーブルの前に立ったまま、しばらく三人を見ていた。
その沈黙は長くて、凪沙は鏡を握る手に自然と力が入った。
「セントリアでのことを、聞かせてくれ」
怒っているわけではなく、ただ確かめなければならないことがあるという声だった。
ノクスが一歩前に出て、話し始めた。
神官学校でルナリアの直筆文書を閲覧したこと。
文書の中に、涙晶の手がかりとなる記述があったこと。
文書には一切手を触れず、持ち出してもいないこと。
一つずつ、丁寧に。
レグルス王は何も言わずに聞き、途中で目を閉じた。
その間、誰も口を開かなかった。
燭台の火が、かすかに音を立てて揺れていた。
話が終わると、レグルス王はゆっくりと目を開けた。
「ヴィクターが、お前たちを訪ねてきた」
その一言で凪沙は隣のノクスの背筋が、わずかに伸びるのを感じた。
「セントリアの神官学校から、王家が文書を持ち出したと。そう訴えてきた」
「持ち出していません」
ノクスの声は揺れなかった。
「分かっている」
レグルス王は静かに頷いた。
「だが、彼がそれを知っていたこと自体が問題だ」
レグルス王の視線が、ゆっくりと凪沙に移った。
深い蒼の瞳。
ノクスと同じ色をしているのに、もっと多くのものを見てきた目だった。
「お前たちがセントリアで何をしたか、誰かが報告したということになる」
凪沙の胸の中で、何かがすっと冷たくなった。
その言葉が急に部屋の中の空気を重くした。
燭台の灯りが、さっきより少しだけ頼りなく見えた。
「神官学校の中に、ヴィクター様の目があるということでしょうか」
ノアが静かに言った。
手帳を持つ手が、いつもより硬く見えた。
「それも考えられる」
レグルス王は答えた後、わずかに間を置いた。
次に出てくる言葉の重さを、その間が物語っていた。
「だが、もう一つ可能性がある」
燭台の火が一つ、小さく爆ぜた。
「王宮の中にも、彼の目があるということだ」
王宮の中や毎日歩いている廊下。
毎日顔を合わせる使用人たち。
優しくしてくれた人たち中の誰かが。
そう考えただけで、足元が少し揺らぐような感覚があった。
ノクスの表情が何かを思い出しているような顔だった。
誰の顔を思い浮かべているのか、凪沙には分からなかった。
でもその固さの中に、苦しさがあった。
信じていた誰かを、疑わなければならない苦しさが。
「父上もわかっているかと思いますが、出発前に行き先を知っていたのは限られた人間だけです」
「そうだ。だからこそ、慎重に動かなければならない」
レグルス王はそう言って、初めて視線を逸らした。
窓の外、夜が近づく王都を見ていた。
凪沙は手の中の鏡を見ると、銀色の蓋が燭台の灯りをかすかに反射していた。
セシリアが、それまでずっと黙っていたけれど、ゆっくりと口を開いた。
「ヴィクターは、訴えたことで何を得たいのでしょう」
その声には、レグルス王の言葉よりも何か別の温度があった。
心配と、戸惑いと、それでも冷静さを保とうとする気配が、声の中に重なっていた。
レグルス王はセシリアを見て、それから三人に視線を戻した。
「おそらく、警告だ。『見ているぞ』という」
「警告……」
凪沙はその言葉を、口の中で繰り返した。
誰かに見られている、ということ。
誰かに知られている、ということ。
「彼は、王家が涙晶の手がかりを得たことを知っている。それを快く思っていない可能性が高い」
凪沙は手の中の鏡を、もう一度握った。
ヴィクターがティアの異変を隠していることは、もう知っている。
でもそれが涙晶の手がかりを王家が得ることと、どう繋がるのだろう。
隠していることが知られるのを恐れているのか、それとも、もっと別の理由があるのか。
「陛下、ヴィクターは……ティアが弱まっていることをなぜ隠してるんでしょうか」
凪沙は思わず聞いた。
その声は、思ったより小さく出た。
窓の外の光が、少しずつ橙色から藍色へ変わっていくのが見えた。
「正直に言えば私にも分からない。彼は何代も前から、最高神官の地位にある。彼自身が何を望んでいるのか、誰も本当には知らない」
「何代も前から……?」
何代も前からということに凪沙は思わず聞き返した。
「彼は見た目より遥かに長く生きている。神官の中には、儀式によって寿命を延ばす者がいる。ヴィクターもその一人だ」
凪沙の中でヴィクターという人物の輪郭が、もう一度形を変えた。
穏やかな老人ではない。
優しい笑みの裏に何かを隠した人というだけでもない。
何百年もこの王国を、この聖堂を見続けてきたもっと別のもの。
時間そのものに近い何か。
その何かが、今こちらを見ている。
背筋に、冷たいものが走った。
✦ ✦ ✦
謁見が終わって、ノクスと凪沙は廊下を歩いていた。
窓の外はもう夜だった。
魔法の灯りが、街のあちこちで灯り始めていた。
いつもなら綺麗だと思う光景なのに、今夜はどこか遠くに見えた。
しばらく二人とも何も言わず、足音だけが石畳に響いていた。
「……怖かったか」
ノクスがようやく口を開き凪沙へと声をかける
凪沙は、怖いという言葉がぴったりはまるかどうかを考えていた。
「怖いっていうより……なんだか、靄が深くなった感じ」
「靄」
「ヴィクターのこと知れば知るほど、よく分からなくなる。何百年も生きてるとか、王宮の中に目があるかもしれないとか。考えれば考えるほど何が本当なのか分からなくなって」
凪沙は自分の言葉が、思ったより弱々しく聞こえることに気づいた。
でも、取り消す気にはならなかった。
今、感じていることを正直に言葉にしただけだった。
窓から差し込む月明かりが、廊下の石畳に二人の影を伸ばしていた。
「凪沙、分からないことが多いまま動くのは、危険だ。だから……これからは、お前の周りに人を増やす」
「人を増やす?」
「カインの他にも護衛をつける。鏡を持っている以上、お前は狙われる可能性がある」
淡々とした言い方だったけど、凪沙にはその淡々さの下にあるものが見えた気がした。
さっき謁見の間で見せた、苦しそうな顔。
誰かを疑わなければならない苦しさを抱えたまま、それでも凪沙を守るための言葉を、こうして並べている。
凪沙は思わず足を止めた。
「ノクス」
「……何だ」
ノクスも足を止めて、凪沙を見た。
「私のこと、すごく心配してくれてるんだね」
ノクスは一瞬、言葉を失ったような顔をした。
何か言おうとして、うまく言葉が出てこないような表情。
それから、ふいと視線を逸らした。
「……当然だろ。客人だし、鏡のことも」
「それだけ?」
凪沙は少し意地悪な気持ちで聞いた。
重い空気を少しでも軽くしたかったのかもしれない。
あるいは、本当に聞きたかったのかもしれない。
ノクスの視線が、明らかに気まずそうに横へ逸れていった。
「……それだけじゃ、ない」
絞り出すような声だった。
視線は廊下の先に向けたまま、それ以上は何も言わなかった。
凪沙は、静かに微笑んだ。
ただ、嬉しかった。
こんな重い夜の中で、こんな小さな言葉が、ちゃんと光って見えた。
「ありがとう。気をつけるね」
ノクスは何も言わず、また前を向いて歩き出した。
凪沙はその隣を歩きながら、手の中の鏡をそっと握った。
靄は晴れてなくて、むしろ濃くなったかもしれない。
それでも、隣にこの人がいることが今は何よりの安心だった。
廊下の窓の外で、王都の灯りが夜の中にひとつずつ増えていった。




