第二十章 セントリアの夜
翌日は、調査のない一日だった。
セントリアの夏は王都より少し涼しくて、それは山に近いからなのか昼間でも日陰に入ると風が気持ちよかった。
凪沙がルクセリアに来て二か月が経とうとしており、ノアが集めた情報を整理するのに時間が必要でノクスも「今日は自由にしていい」と言った。
ジブリールはその言葉を聞くや否や、凪沙の手を引いた。
「行きましょう!案内します!セントリアは王都と全然違う美味しいものがあって!」
「落ち着け」
カインが言ったけれど、ジブリールはすでに歩き出していた。
セントリアの街は、昼間に改めて歩くと昨日とはまた違う顔を見せた。
神官学校の近くには古い礼拝堂が並んでいて、その石壁に蔦が絡んでいた。
市場は王都より小さかったけれど、品物の種類が違った。
この地方でしか採れない薬草や、巡礼者向けの小さな聖具などをジブリールが一つ一つ説明してくれた。
「これ、ルミナ石っていって、聖堂の近くの川でしか採れないんです。持っていると魔力の流れが安定するって言われていて」
表面が滑らかで光を受けてわずかに輝いていて、手のひらに乗るくらいの淡い青色の石だった。
「綺麗だね」
「でしょう。ここに来た巡礼者がよくお土産に買っていくんですよ」
ティアと同じ青白い色をしていたからか凪沙はその石をしばらく眺めた。
昼食はジブリールの行きつけの店を紹介してくれた。
スープに厚いパンを浸して食べる、セントリアの地元料理だった。
素朴だけれど、体が温まる味がした。
「凪沙さん、昨日の文書で何か大事なことが分かったんですよね」
ジブリールが器を両手で包みながら聞いてきたので凪沙は頷いた。
「ルナリアが書いた言葉があって。鏡を持つ人に向けた言葉で、すごく……心に残って」
「どんな言葉ですか」
「世界を救える者ではなく、世界を愛せる者を鏡は選ぶって」
ジブリールは目を丸くして、それからゆっくりと笑った。
「凪沙さんのための言葉みたいですね」
「そう思う?」
「だって凪沙さん、この世界のこと本当に好きそうだから。来た頃からずっと街を見る目が嬉しそうで」
「……うん。好きだと思う」
この世界が、という意味だったけれど言いながら別の顔も浮かんだ。
銀色の髪と、深い蒼の瞳の彼が。
凪沙はそっと目を逸らした。
✦ ✦ ✦
夜になって、ノクスが凪沙の部屋を訪ねてきた。
「少し歩かないか」
「今から?」
「夜のセントリアを見ておくといい。王都とは違う」
誘い方がいつも通り不器用だったけれど、凪沙は上着を羽織って部屋を出た。
夜のセントリアは王都より静かだった。
魔法の灯りが礼拝堂の軒先に灯されていて、石畳の上に柔らかな光の道を作っていた。
人通りは少なく、どこかから鐘の音がゆっくりと響いてきた。
二人で並んで歩く足音だけが石畳に響いた。
「王都と違うって言ってたね」
「王都は賑やかさがある。ここは……静けさがある」
「どっちが好き?」
ノクスは少し考えてから答えた。
「どちらも好きだ。でも今夜はこっちの方が合っている気がする」
凪沙はその横顔を見た。
夜の光の中でノクスの銀髪が淡く光っていた。
いつもより少し柔らかい表情をしていて、王宮にいる時とは違う旅の中のノクスだった。
「ノクス、楽しんでる?」
「……楽しんでいるのかもしれない」
少し意外そうに、自分で言いながら気づいたような口ぶりだった。
「久しぶりにティアのことを一日中考えていなかった」
凪沙は胸の中で、何かがほっとした。
細い路地を抜けると小さな広場に出た。
中央に古い噴水があって、その周りに石のベンチが並んでいた。
誰もいなかったので、二人で自然にベンチに腰を下ろした。
しばらく、噴水の音だけが聞こえていた。
「凪沙」
「なに?」
「昨日、文書を読んだ後……泣きそうな顔をしていた」
「泣きそう、じゃなくて泣いてた」
「……そうか」
「でも悲しかったわけじゃなくて。何か、ほっとして」
「ルナリアの言葉が?」
「うん。あと……ノクスが、何も言わないで隣にいてくれたから」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
でも嘘をつく気にはなれなかった。
噴水の水が流れる音が心地よく聞こえる。
凪沙はベンチの石の冷たさを感じながら、夜空を見上げた。
セントリアの空も、星が多かった。
「……俺も、凪沙が泣きそうな顔をしていた時。何もできなくて隣にいることしかできなくて……それで良かったのかどうか、分からなかった」
「良かったよ。隣にいてくれるだけで、ちゃんと伝わってたから」
凪沙はノクスと目が合うと、ノクスが凪沙を見つめているその目がいつもと少し違うことに気づいた。
何かを探しているような、何かを確かめているような、そんな目だった。
やがて視線を夜空へ向けた。
短い沈黙が、答えの代わりだった。
「……そうか」
二人でしばらく、星を見ていた。
言葉はなかったけれど、沈黙が前よりずっと近い距離にあった。
やがて凪沙が立ち上がりノクスも立った。
二人で宿への道を歩き始め、石畳の上に並んだ二人の影が伸びていた。
宿の前まで来た時、ノクスが言った。
「明日、帰る前に……もう一度だけ街を歩くか」
「うん、行きたい」
ノクスは頷いた後、それだけで『おやすみ』も言わずに自分の部屋へ向かった。
でもその背中が、いつもより少しだけ軽く見えた。
凪沙は部屋に入って、扉を閉めた。
鏡を手に取ると、月明かりの中で銀色の蓋がやわらかく光っていた。
好きかもしれない。
心の中で、その言葉がゆっくりと形になった。
種類が分かったとジブリールに言ったら、きっとまた飛び跳ねて喜ぶだろうと思った。
でも今夜は、まだ一人で持っていたかった。




