第十九章 ルナリアの遺した言葉
神官学校は、セントリアの中心部にあった。
石造りの建物が中庭を囲む形で建っていて、白い回廊が続いていた。
隣接する形で魔法学院の校舎もあり、こちらは少し新しい造りで若い生徒たちが教本を抱えて行き交っていた。
神官学校と魔法学院、どちらも先天的・後天的に関わらず魔法を学ぶ者たちが集まる場所なのだとジブリールが説明してくれた。
巡礼者は入れない区域らしく、門のところで学校の神官が出迎えてくれた。
ノクスが王家の証を見せると、神官は深く頭を下げて中へ案内してくれた。
ジブリールは門の外で待つことになった。
「学校の子たちに見られると騒ぎになりますし、私、ここで先生に会うと気まずくて」
理由が二つあるらしかった。
カインが「どんな学生生活を送っていたんだ」と呟き、ジブリールは聞こえていないふりをした。
案内されたのは、建物の奥まった一室だった。
窓が小さくて薄暗く、棚に古い文書が丁寧に並んでいた。
王家の書庫より規模は小さかったけれど、保存状態はこちらの方が良いように見えた。
老いた神官が一人、棚の前で待っていた。
白い髪と、穏やかな目をした人だった。
「ルナリアの直筆文書を見たいとのこと承りました。長い間、誰も閲覧を求めませんでしたので……大切に保管してあります」
神官は棚の奥から、木の箱を取り出した。
蓋を開けると、薄い革に包まれた文書が入っていた。
王家の書庫にあったものより、紙が黄ばんでいた。
でも文字は鮮明だった。
「お時間をどうぞ。必要があれば呼んでください」
神官は一礼して、部屋を出ていった。
✦ ✦ ✦
ノアが文書を開き、三人で覗き込んだ。
書庫の写しと同じ書き出しから始まっていたけれど、その先が続いていた。
ノアがゆっくりと声に出して読んだ。
「『二粒目の涙は深淵に眠る。水の底、光の届かぬ場所。かつてそこに都市があった。今は水に沈んでいる。その都市の名はヴェルナ。女神が最後に立ち寄った場所だ』」
凪沙はノクスを見ると静かな顔で聞いていたが、目の奥に何かが灯っていた。
「ヴェルナ……聞いたことがない地名だ」
「古い地名かもしれません。続きを読みます」
ノアがページをめくった。
「『三粒目の涙は風の中に眠る。山の頂、雲より高い場所。嵐の中心に静寂がある。その場所を知る者は今はいない。ただ、鏡だけが道を示す』」
三人の間に、静けさが落ちた。
「鏡だけが道を示す……」
凪沙の胸の中で、何かが静かに揺れた。
「鏡に、場所を示す力があるということですか」
「境界を映す能力があると王家の記録にもある。もしかすると、涙晶の在り処を映すことができるかもしれない」
ノクスの言葉に、凪沙は鏡を見た。
銀色の蓋が、薄暗い部屋の中でかすかに光っていた。
ノアがさらにページをめくり、そして少し間を置いた。
「……最後に、もう一節あります」
「読んでくれ」
「『この言葉を読む者へ。あなたは鏡を持ってここまで来た。長い道のりだっただろう。疲れただろう。怖かっただろう。でも鏡はあなたを選んだ。それは偶然ではない。鏡が選ぶのは、世界を救える者ではなく、世界を愛せる者だ。あなたがこの世界を少しでも愛しているなら、それで十分だ』」
部屋が、しんと静まった気がした。
凪沙は気づいたら目が潤んでおり、泣くつもりはなかったけれど、止められなかった。
世界を救える者ではなく、世界を愛せる者。
その言葉が、胸の一番深いところへ真っすぐに落ちていき、肩の力がふっと抜けた。
鏡に選ばれたことで、何か大きなものを背負わなければならないという気持ちが、いつの間にかどこかにあったのだと気づいた。
でも、ルナリアはそう言わなかった。ただ、愛しているなら十分だと言った。
隣でノクスは何も言わず、ただ少し体を凪沙の方へ向けた。
その優しさで十分だった。
凪沙は目元を拭って、鏡を両手でそっと包んだ。
おばあちゃんも、これを読んだのかな。
祖母もここに来て、この言葉を読んだのだろうか。
それとも、祖母の時代にはまだこの文書は見つかっていなかったのだろうか。
分からない。
でも、今この瞬間に自分が読んだことは確かだった。
✦ ✦ ✦
部屋を出ると、回廊に昼の光が差し込んでいた。
三人でしばらく無言で歩いた。
ノアは手帳に何かを書き込んでいて、カインが回廊の端で待っていて、凪沙の顔を見て少し目を細めた。
門の外に辿り着くとジブリールが待っていた。
凪沙を見て、すぐに何かを察したらしかった。
「……何かありましたか」
「うん。でも、良いことだったと思う」
「そうですか」
ジブリールは凪沙の隣に並んで歩いた。
何も聞かずに、ただ隣にいてくれた。
そんな二人の少し後ろをノクスが歩いていた。
凪沙が振り返ると、ノクスも凪沙を見ていた。
目が合うと短く頷いた。
大丈夫か、という意味だと分かったから凪沙も頷いた。
セントリアの街に、昼の鐘が鳴り響いた。
尖塔の上から広がる音が、石畳の上を流れていった。
凪沙は手の中の鏡を握りしめた。
あなたがこの世界を少しでも愛しているなら、それで十分だ。
十分だ、とルナリアは言った。
凪沙はゆっくりと息を吐いた。
空が青くて、風が冷たくて、気持ちよかった。
この世界を愛しているかと聞かれたら、今の凪沙には迷わず答えられた。




