第十七章 出発の前夜
セントリアへ行くことが正式に決まったのは、ヴィクターとの再会から二日後だった。
ノクスがレグルス王に話を通したらしく、昼過ぎに凪沙の部屋を訪ねてきた。
「三日後に出発する。セントリアまで馬車で半日ほどだ」
「ノクスも来るの?」
「当然だろ」
即答だった。
凪沙が少し驚いた顔をすると、ノクスは少しだけ目を逸らした。
「……凪沙一人では行かせられない。カインも来る。ノアも同行する」
「ジブリールは?」
「聖堂の仕事があるから現地で合流できるかもしれない。セントリアはジブリールの地元でもある」
「そうなんだ」
凪沙は少し嬉しくなった。
知らない場所へ行くのに、知っている顔が増えるのは心強かった。
「ヴィクターには知らせないの?神殿の管轄なら、許可が必要だったりするんじゃ」
「神官学校の文書閲覧は、王家の権限で動ける。神殿に事前に知らせる必要はない」
ノクスは静かに、でもはっきりと言った。
「向こうが動く前に、こちらが先に文書を確認する」
その目にいつもの誠実さと、それとは少し違う強さが混じっていた。
王子として、王国を守ろうとしている人の目だった。
凪沙はそれを見て、胸の中に何かが静かに積み重なっていく感覚があった。
✦ ✦ ✦
出発の準備はあっという間に整った。
使用人が旅の荷物を用意してくれて、凪沙はそこに鏡だけ自分で加えた。
どこへ行くにも、これだけは自分で持つと決めていた。
準備を終えて、セシリア王妃が凪沙の部屋を訪ねてきた。
両手に小さな包みを持っていた。
「旅の前にと思って」
包みを開けると淡い青色で、端に細かな刺繍が施されていた柔らかなショールが入っていた。
「セントリアは王都より少し肌寒いから。体に気をつけてね」
「ありがとうございます」
「ノクスのことも、よろしくね」
以前にも似たような事を言われたけれど、今日は少し重みが違った。
セシリアは凪沙の目を見て、穏やかに微笑んだ。
「あの子は、自分が疲れていても誰にも言わない子だから」
✦ ✦ ✦
出発前夜、凪沙は眠れなかった。
布団の中で天井を見上げていると、さまざまなことが頭の中を行き来した。
セントリアのこと、ルナリアの文書のこと、失われた涙晶のこと、そしてヴィクターのこと。
やがて起き上がって、枕元の鏡を手に取った。
月明かりの中で銀色の蓋がうっすらと光っていた。
蓋を開くと鏡面に自分の顔が映った。
いつもと変わらない顔をしていた。
でも何か、来た頃とは違う目をしているような気がした。
「おばあちゃんも、こういう夜があったのかな」
ルクセリアに来て、知らない場所へ旅に出る前夜。
眠れなくて、鏡を手に取って、どこかへ向かう自分を確かめるような夜が。
祖母はどんな気持ちだったのだろう。
怖かっただろうか。
それとも、前だけを向いていたのだろうか。
「おばあちゃん…」
鏡の縁に目をやった。
光の角度によっては見える細かな文字。
今夜は月明かりの中でうっすらと見えていた。
ーーー持つ者よ、これを読む時が来たなら。
続きはセントリアにある。
そう思うと、怖さよりも先に何かが前へ引っ張る感覚があった。
知りたいという気持ちが。
祖母のことを、この世界のことを、そして自分がここにいる理由を。
すると、扉が静かにノックされた。
こんな時間に、と思いながら「はい」と答えた。
「眠れないか」
来訪者がノクスだったことに凪沙は少し目を丸くした。
「……ノクスこそ、眠れてないの?」
「少し、な」
凪沙は扉を少し開けるとノクスは廊下に立っていた。
部屋着姿でいつもより少し髪が乱れていて、そういう姿を見ると本当に同じ十八歳なんだと思う。
「何か考えてたの?」
「色々と。凪沙は?」
「おばあちゃんのこと」
「……凪沙の祖母も、同じ道を歩いたのかもしれないな」
「そう思う。だからなんか、怖いより楽しみな気持ちの方が強くて」
「楽しみ?」
「おばあちゃんが見た景色を、私も見られるかもしれないから」
ノクスはしばらく凪沙を見ていた。
その目が、少し柔らかくなった。
「……そうだな」
短く言って、廊下の壁に背を預けた。
「明日は早い。少しでもいいから眠れ」
「ノクスもね」
「分かってる」
でも、その場を離れなかった。
凪沙も扉を閉めなかった。
しばらく廊下の静けさの中に二人でおり、月明かりが廊下の石畳を白く照らしていた。
やがてノクスが静かに言った。
「凪沙」
「うん」
「セントリアでも、俺の隣にいてくれ」
命令でも、お願いでもなかった。
ただ、そうあってほしいという気持ちがそのまま言葉になったような声だった。
凪沙は少し間を置いてから、頷いた。
「うん。いる」
ノクスはかすかに表情が緩んだ後、おやすみと言って部屋に戻った。
扉を閉めると、今度は不思議と眠れそうな気がした。
鏡を枕元に置いて、布団に入った。
おばあちゃん、行ってきます…と心の中で呟いた。
月明かりが窓から差し込んで、部屋をやわらかく照らしていた。




