第十六章 手がかり
ノアが「報告したいことがある」と言ってきたのは書庫へ行ってから五日後の夜だった。
ノクスも呼ばれ、三人で書庫の小さなテーブルを囲んでノアが手帳を開いた。
几帳面な字がびっしりと並んでいるページを、ノアは指でたどりながら話し始めた。
「ルナリアの文書を全部読みました。他にも関連する記録を十二冊照らし合わせて、ようやく一つの仮説が固まってきました」
「聞かせてくれ」
「女神ルミナが流した涙は、三粒あったと考えられます」
凪沙は思わず口を開いた。
「三粒?」
「ルナリアの文書に、こう書かれていました。『女神は別れに際して三度涙を流した。一粒目は大地へ、二粒目は深淵へ、三粒目は風の中へ』。今の聖堂にあるティアが一粒目だとすれば、残り二粒がどこかにある」
書庫が静まり返り、魔法の灯りが青白く揺れていた。
「深淵と、風の中……ですか」
凪沙が繰り返すと、ノアが頷いた。
「抽象的な表現ですが、他の文書と照らし合わせると少し具体的になってきます。深淵は地下深く、あるいは水の中。風の中は高い場所、山の頂や空に近い場所を指している可能性があります」
「手がかりはあるのか?」
「一つ、気になる記録があります。聖都セントリアの神官学校に、ルナリアの直筆とされる文書が保管されているという話が残っていて。王家の書庫にあったのはあくまで写しで、原本がそちらにあるとすれば……もっと詳しい情報が書かれているかもしれません」
ノクスとノアの視線が交わった。
凪沙にも、この話がどこへ向かっているか分かった。
「セントリアへ行くということ?」
「可能性として、ということです。ただ……」
ノアは少し言葉を選ぶように間を置いた。
「その文書、神殿が管理しているとも聞いています。つまりヴィクター師の管轄下にあるということです」
三人の間に、静かな緊張が漂った。
「……動く前に、もう少し調べる必要があるな」
ノクスは慎重な面持ちだった。
でもその目の奥に、何かが動いていた。
諦めではなく、前を向こうとしている光が。
✦ ✦ ✦
翌日の朝、凪沙は一人で聖堂へ向かった。
ノクスに伝えると、今日はカインが一緒に来られないからと少し渋い顔をしたけれど聖堂の入り口まで護衛をつけてくれた。
凪沙が「中は一人で大丈夫」と言うと、「何かあればすぐ呼べ」と念を押して廊下の角で待っていてくれることになった。
昼間の聖堂は、いつも静かで落ち着く場所になっていた。
ティアの前に立つと不思議と気持ちが整う気がした。
しばらくティアを眺めていると、後ろから足音が聞こえた。
ゆっくりとした、重みのある足音。
凪沙は振り返る前に、誰なのか分かった。
「また来てくださいましたね」
ヴィクターだった。
今日も白い長衣を纏って、穏やかな笑みを浮かべていた。
その笑みの奥の目が、まっすぐ凪沙に向いていた。
「はい。ティアを見たくなって」
「それは嬉しい。ティアも、あなたを歓迎しているでしょう」
ヴィクターはティアに目を向けた。
その横顔は穏やかだった。
でも今日は、先日より何かが違う気がした。
距離が、少し近い。
「凪沙さん、少しお聞きしてもよろしいですか」
「……何でしょう」
「王家の書庫へ行かれたと伺いました」
凪沙は表情を変えないようにした。
どこから聞いたのだろう。
王宮の中にヴィクターへ情報を流している誰かがいる、ということだろうか。
「はい。ノクス殿下に連れていただいて」
「何か、面白いものが見つかりましたか」
穏やかな口調だったが、でもその問いは探っているのだと凪沙には分かった。
「古い本をいくつか見ただけです」
凪沙は笑顔で答えた。
嘘はついていない。
ただ、全部は言わなかった。
ヴィクターはしばらく凪沙を見ていた。
その目が、初めて会った時とは少し違って見えた。
穏やかさの奥に何か鋭いものが混じっていた。
「そうですか」
やがて、また穏やかな笑みに戻った。
「何かお力になれることがあれば、いつでもおっしゃってください。私はいつもここにおります」
そう言ってヴィクターは奥の廊下へ消えていった。
凪沙はしばらくその場に立っていた。
胸の中に、薄い靄のようなものが残った。
敵意ではないけど安心もできない。
あの人は何を知っていて、何を隠していて、何を求めているのだろう。
ティアの光が、静かに揺れていた。
いつもより少しだけ、頼りなく見えた。
✦ ✦ ✦
王宮に戻ると、廊下でノクスが待っていた。
護衛から報告を受けていたのか、凪沙の顔を見た瞬間に眉が少し動いた。
「ヴィクターに会ったか」
「うん。書庫へ行ったことを知ってた」
ノクスの顔が、すっと固くなった。
「何を話した」
「古い本を見ただけって答えた。それ以上は何も」
「……よかった」
ノクスは安堵し、それから凪沙をまっすぐ見た。
「しばらく、一人で聖堂へ行くのはやめてくれ」
「……ヴィクターのこと、やっぱり心配してる?」
「心配、というより」
ノクスは少し言葉を選ぶように間を置いた。
「あの人は賢い。お前が何か知っていると気づいたら、次は別の方法で探ってくる。凪沙に近づく理由を作ろうとするかもしれない」
「分かった。気をつける」
「気をつけるだけじゃなく、一人で行くな」
ノクスの声が、少し低くなった。
強く言っているのではなく、心配が言葉に出てしまっているような低さだった。
凪沙はその顔を見て、小さく頷いた。
「分かった。一人で行かない」
ノクスは、ふっと力が抜けたような顔をした。
「……ありがとう」
お礼を言われるとは思っていなくて、凪沙は少し目を丸くした。
ノクスはもう前を向いていて、その横顔はいつもの王子らしい顔に戻っていた。
でも「ありがとう」という言葉が、廊下の空気の中にまだ残っているような気がした。




