第十五章 気づかないふり
翌朝、ジブリールは開口一番に言った。
「昨夜、どうでしたか!」
朝食を持ってきた使用人が出ていくや否や、ジブリールが身を乗り出してきた。
凪沙はお茶のカップを持ったまま、少し笑った。
「楽しかったよ。花火はとても綺麗だった」
「花火だけですか!?他には!?」
「他には……露店を見て回って、灯篭を眺めて」
「殿下は!?」
「一緒にいたよ」
「それだけですか!!」
ジブリールが机に突っ伏した。
凪沙は苦笑いしながらお茶を一口飲んだ。
「ジブリール、何を期待してたの」
「告白とか!手を繋ぐとか!せめて肩が触れるとか!」
「どれも起きてない」
「なんでですか……殿下、凪沙さんのこと絶対好きなのに」
凪沙はカップを置き首を傾げた。
「そんなこと、ないと思う」
「なんでそう思うんですか」
「だって……夢で会ってた相手が現れたから、特別に感じてるだけかもしれないし。私のことが心配なのは客人だからかもしれないし」
言いながら、どこかで聞いたような言葉だと思った。
ノクスが自分の気持ちに言い訳する時に使いそうな言葉とよく似ていた。
ジブリールが顔を上げて、じっと凪沙を見た。
「凪沙さんは、殿下のことどう思ってるんですか」
ジブリールの問いに凪沙は少し考えた。
窓の外、中庭に朝の光が差し込んでおり噴水の水が光を受けてきらきらしていた。
「……分からない」
正直に言った。
「好きか嫌いかで言えば好きだと思う。でもそれがどういう好きなのか、まだよく分からなくて」
「十分じゃないですか」
「十分?」
「好きって分かってるなら。種類は後から分かるものですよ」
ジブリールはにこりと笑った。
その笑い方が妙に確信に満ちていて、凪沙は少し目を逸らした。
胸の中で、昨夜の花火が一瞬だけ蘇った。
目が合った時の、あの瞬間が。
✦ ✦ ✦
執務室の書類が、全然頭に入ってこなかった。
ノクスは羽ペンを持ったまま紙の上の文字を見ていた。
見ていたけれど読んでいなかった。
気づいたら、昨夜のことを考えていた。
花火の光の中で凪沙が「綺麗」と言った顔を。
その顔を自分がずっと見ていたことを。
目が合った瞬間に視線を逸らした事は情けないと思った。
でも逸らさなければどうなっていたか、考えると余計に落ち着かなかった。
「何をやっているんだ、俺は」
ノクスは羽ペンを置いてこめかみを押さえた。
凪沙のことは大切にしなければならない。
それは分かっている。
異世界から来て、帰る方法も分からないまま王宮にいる。
不安も、寂しさもあるはずだ。
だから気にかけるのは当然だし心配するのは当然だ。
一緒にいたいと思うのも、それが理由だ。
そう、それだけだ。
「……殿下」
扉の近くから、カインの声がした。
いつからいたのかと、ノクスは顔を上げた。
「何だ」
「書類、一枚も進んでいませんね」
「分かっている」
「昨夜のルミナ祭は、楽しかったですか」
ノクスはカインを見るとカインは無表情だった。
いつも通りの何も読み取れない顔をしていたが、目の端にわずかに何かが浮かんでいる気がした。
「……公務だ」
「途中で抜け出していましたね」
「凪沙が来たいと言っていたから連れていっただけだ」
「そうですか」
カインはそれだけ言って、また黙った。
その沈黙が、何かを言っているような気がしてノクスは少し苛立った。
「何か言いたいことがあるなら言え」
「別に」
「カイン」
「……ただ」
カインは少し間を置いてから続けた。
「殿下がティアのこと以外で頭を悩ませているのを見たのは久しぶりだと思いまして。それだけです」
カインはそう言って、執務室を出ていった。
足音が廊下に遠ざかって静かになっていく。
ノクスはしばらく扉を見ていたが、それから視線を書類に戻した。
文字が、さっきよりは頭に入ってきた。
ただ、凪沙のことを考えるのをやめられたわけではなかった。
✦ ✦ ✦
夕方、廊下で凪沙はノクスとすれ違った。
向こうから歩いてきて目が合った。
昨夜と同じように、でも今日はすぐに逸らさなかった。
「昨夜は、ありがとう」
「……楽しかったか」
「すごく」
「そうか」
ノクスの口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
二人はそのまま別の方向へ歩いていった。
すれ違いざまに袖がかすかに触れた。
ほんの一瞬だけ。
凪沙は歩きながら手のひらをそっと握った。
鏡は持っていなかった。
それでも、胸の中がじんわりと温かかった。
『種類は後から分かるものですよ』
ジブリールの声が頭の中で聞こえた気がした。




